2012年1月6日金曜日

玄徳ということ

老子に曰く

道は万物を生じさせしめて、しかしてこれを微塵も我物として有せず
衆生に無限の施しをなして、しかしてこれを一切誇らず示さず
万物をその性情に応じてあるがままに長ぜしめて、なおこれを寸毫も主宰すとせず

これを道そのものの性情、すなわち玄徳と称す。



形ある存在としての万物を各々万物あらしめている道というものは、万物のもつ各々個別の性情そのままのものとしてあります。

すなわち万物は道より形を与えられることで生じ、その与えられた形に沿ってその性情は自ずから個別具体的に定まりますが、しかしその形を失えば個々の性情の差異もただちに失われ、そのまま元の道へと還元されるしかないものです。

そうであるがゆえに万物はことごとく例外なく道より生じているといえるのです。

しかし人間というものは、万物をその有する性情に於いて如実に観察するのではなく、自身の都合思惑においてのみ判断評価する分別知という性質を持ちますので、(言葉の働きである)この分別知を働かせるほどに道から遠ざかります。

そしてこの分別知というのは言葉の持つ働きとしてのみ存在します。

(もっと言えば、一切の悪の根源であり苦の真因である欲望もまた、元を正せば言葉の分別知、その働きとしてしかありません。

これとあれ、自分と客体、このような言葉の上で仮構された分別知のうえでのみ、自分があれを得るこれを失うという関係性がありえますが、このような関係性がないときには、そもそも欲望の対象も欲望の主体もありえませんので、欲望はそのまま止滅しているしかありません。)

本来、不断に変化しだからどこまでも無定形といえるところに心を止め(時が永遠に静止した状態でない限りありえないはずの)形を認め、どこまでも一体不可分であるところのものに無限に細分化する部分と分断を見出し、それら要素の関係性の上に、(究極的な実体も最後に残るべき真実も何も実在していない、それゆえ)妄想そのものと言える観念に置き換えられた世界観、言葉の上にしか存在していない仮構された世界を自心の中に有します。

これを妄想といい、この妄想に無自覚な状態の心を蒙と言います。

ここで妄想を離れた、根本の道理から述べるなら、道、天、神というのは、それを人間がいかなる呼称で呼ぼうとも、決して言葉において語り得るものではありませんし、それが言葉を持って語りかけるということもありえません。

そのような真似は分別知を有する者のみがすることであり、それゆえ言葉において語りうることはすべて人の業に違いなく、それはどれほど真実に近しいとしてもなお真実そのものとはなりえません。

であるなら、言葉において語られた処を持って万物各々の形に応じた性情を矯めようとする教えは、それがいかにいと尊き存在の権威を僭称し美辞麗句に満ちたものであったとしても、畢竟人間と社会の都合や必要において妄想されただけのものであるにすぎません。
だから人間と社会にとって不都合不必要であるなら、それを打ち捨て焼き滅ぼすのも人の自由です。
あるいはそのことが将来の結果を見通せていない思慮浅薄な知恵ない行いであり、それで結果的に我が身に災いを招いたとしても、それは天罰ではありません。
天も神も何の関係もその意図も関わりない、ただの自業自得です。

そもそも万物を生み出し、万物に形を与え、万物を各々の性情のままに万物たらしめている道とは、愚かで無知な宗教が語る神のような迷信じみた作用や意志の示し方をすることは一切ありません。

すなわち

道は万物を生じさせ育てますが、しかして道と万物は不可分一体ですので、決して道が万物を有しているというわけではありません。

生きとし生けるものを互いに関わらせ恵合わせ施させしあうのは、万物の形を持った道そのままそのものの働きであり、そこに与える者受け取る者の区別分別も本来は一切ありえませんから、道がこれを自身の手柄であると誇ることなどありえません。

万物が各々個別具体的な有様でありそれぞれの働きをなすのは、与えられた形に応じた道そのものの表れに過ぎませんので、ここに主宰する者それに従う者の区別分別も本来はありえません。
ゆえに万物は道において斉同であり無区別であり不可分であり平等だといえるのです。

これを道そのものの性情、すなわち最上の徳、玄徳と呼びます。

この言葉の意味は、あたかも昏く朧げであるのかないのかわからぬ幻のような徳、受ける側がそれを与えられているということさえ一切感覚することはないがしかしそれによってこそ生かされているそれなしでは何も生きられない根源的な働きということです。

道、天、神、仏、その働きを如何に呼ぼうとも、この玄徳の性情なくば、何者もそのように呼ばれるべき何かではありえません。


にも関わらず、玄徳備わらない自らを神仏と称し、戯言のような言葉を人間に投げかける存在があるととすれば、そのようなものに向かってはただ「汝去れ!」と命じ、どこまでも無視するべきでありましょう。

そのようなものに関わるほどに、ますます人は道より遠ざかり、本来玄徳と一つたるべきどこまで清浄無垢なる自身の心を、言葉の分別知によって汚し染めるだけのことになります。


しかしこの俗世間には、根本の簡明な道理を解さず、愚かな言葉を連ねるだけの宗教や宗教家が理もなき妄想を垂れ流すことに余念なく、それゆえ正しい道理に契当し心を能く統べ治められる人間もまた少ないままです。

それゆえそのような根本的倒錯を正すために、あえてここで言葉による説明を試みているわけですが、しかしてこれもまた言葉の分別の働きを借りて行うにすぎないものですので、決して真理そのものとはなり得ません。

ただ言葉に仮構されたところに耽溺するだけの、多くの知恵無き宗教及び宗教家たちの過ちを些かでも改め、人々が向かい目指すべき方向を正しく指し示す一助になれば幸いと存じ、試みている次第です。