・国際石油資本(こくさいせきゆしほん)
石油メジャー
資本力と政治力で石油の探鉱(採掘)、生産、輸送、精製、販売までの全段階を垂直統合で行い、シェアの大部分を寡占する石油系巨大企業複合体の総称。
石油メジャーのうち、特に、第二次世界大戦後から1970年代まで、石油の生産をほぼ独占状態に置いた7社を セブン・シスターズ(Seven Sisters、、セブン・メジャーズ。別名:7人の魔女)と呼んだ。
1 スタンダードオイルニュージャージー(後のエッソ、その後1999年にモービルと合併しエクソンモービルに)
2 ロイヤル・ダッチ・シェル(オランダ60%、英国40% )
3 アングロペルシャ石油会社(後のブリティッシュペトロリアム、2001年に会社名の変更でBPに)
4 スタンダードオイルニューヨーク(後のモービル、その後1999年にエクソンと合併してエクソンモービルに)
5 スタンダードオイルカリフォルニア(後のシェブロン)
6 ガルフオイル(後のシェブロン、一部はBPに)
7 テキサコ(後のシェブロン)
この「セブン・シスターズ」は、エンリコ・マッテイの造語だといわれる。
フランス石油(CFP、現TOTAL)を加え、エイト・メジャーズとも言った。
資源ナショナリズムにより石油輸出国機構(OPEC)が主導権を握るまで、世界の石油のほぼ全てを支配していた。
セブン・シスターズのうち、5社がアメリカ資本で、残りの2社が、イギリス資本系のBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)と、イギリスとオランダ資本系のロイヤル・ダッチ・シェルである。
また、エクソン、モービル、シェブロンは、ロックフェラーが創業し、1911年に34社に分割されたスタンダード・オイルが母体である。
1911年、ジョン・ロックフェラーが創設したスタンダード・オイルが、史上初めてシャーマン法(独占禁止法)により34社に分割され、スタンダードオイルニュージャージーや、スタンダードオイルニューヨークや、スタンダードオイルカリフォルニアなどが誕生。
1928年7月31日、カルースト・グルベンキアン主導の下で「赤線協定(Red Line Agreement)」が締結された。
この協定は、スタンダードオイルニュージャージーなどのアメリカ系石油会社が、アングロペルシャ石油会社、ロイヤル・ダッチ・シェル、CFP(フランス石油会社)の3社で構成されるトルコ石油に資本参加する際に定められた協定である。
これは、赤線で囲まれた旧オスマン帝国領内について、協定に参加した各社による、現在のトルコとイラク領内の油田権益の独占と、油田の単独開発の禁止を取り決めたカルテルである。
その後、同じ年の9月17日に、スタンダードオイルニュージャージー、アングロペルシャ石油会社、ロイヤル・ダッチ・シェルのBIG3は、スコットランドのアクナキャリ城で、「アクナキャリ協定(Achnacarry Agreement、As-Is" Agreement)」を結び、前記の独占禁止法による規制が厳しいアメリカと、油田が国有化されトラブルが生じたソビエト連邦以外の、世界の石油市場で各社の販売シェアを固定化した。
その後、サウジアラビアやクウェート、リビアなどで大規模な油田が開発されるが、上記の協定にのっとってセブン・シスターズの独占状態は続いた。
第二次世界大戦後、石油の需要は急拡大する。
少数の企業による石油需要の予測と生産割当てが功を奏し、1960年代末までは、ほぼ安定した価格で原油が取引された。
これは、国際カルテルによる弊害の多い中で、ごく僅かな功績の一つである。
1950年代、大規模な油田開発が続き、原油の供給過剰が慢性化し、それに伴いメジャーは公定価格を段階的に引き下げた。
これに産油国が不満を持ち、1960年にOPECが結成される。
1970年代に入ると、反アメリカ・反ヨーロッパの風潮が産油国に広まる。
メジャー支配脱却を狙っていた産油国は、次々と石油開発への経営参加、国有化を推進した。
1972年には、アルジェリアの油田がフランス資本から国有化された。リビアもBPが所有していた油田を国有化した。
1976年、サウジアラビアでの原油採掘を独占してきた、アラムコの大株主であった、エクソン、モービル、テキサコ、シェブロンの4社はサウジアラビア政府に株式を譲渡。
ここに、セブン・シスターズによる石油支配は一旦の終わりを告げた。
オイルショックを契機として、石油価格の決定権がOPECなどの産油国に移り、セブン・シスターズの影響力は一時は小さくなった。
しかし、1990年代以降、7社は合理化を推進し、合併・統合を繰り返してきた結果、エクソンモービル、シェブロン(2005年にシェブロン・テキサコから改称)、BP、ロイヤル・ダッチ・シェルの4社に統合された。
一部の評論家は、この4社にトタルとコノコフィリップスを加えた6社をスーパーメジャーと呼び、再び石油マーケットを支配する恣意的な動きだと論じた。
1 エクソンモービル(2008年度・売上高4773億ドル)
2 ロイヤル・ダッチ・シェル(2008年度・売上高4584億ドル)
3 BP(2008年度・売上高3657億ドル)
4 シェブロン(2007年度・売上高2209億ドル)
5 トタル(2008年度・売上高1799億ユーロ)
6 コノコフィリップス(2007年度・売上高1885億ドル)
しかし、合併による規模の拡大を推し進めたとはいえ、2000年現在、この大手4社の世界における原油生産シェアは10%程度、保有する油田の埋蔵量シェアは3%である。
これは、統合によりリストラを推し進め、生まれた利益を株式の自己償却などの株主還元や、天然ガスや燃料電池などの次世代エネルギー開発に投資し、リスクの高い新規油田開発への投資を削減したためである。
石油掘削の技術には一日の長を持つが、1970年代まではセブン・シスターズを含めて20社程度しか手がけることが出来なかった石油の上流事業も、2000年を過ぎると200社以上が参入し、激しい競争に巻き込まれている。
このため、大手4社は石油企業から総合エネルギー商社への転換を急いでいる。
一方、ロシアや中国などの主な国営企業7社の原油生産シェアが合わせて30%、保有する油田の埋蔵量でも30%と存在感を増してきており、かつてのセブンシスターズになぞらえて、以下の国営企業7社を新・セブンシスターズと呼ぶ声もあがっている。
1 サウジアラムコ(サウジアラビア)
2 ペトロナス(マレーシア)
3 ペトロブラス(ブラジル)
4 ガスプロム(ロシア)
5 中国石油天然気集団公司(CNPC)(中国)略称:“中石油”(ペトロチャイナ)
6 イラン国営石油(NIOC)(イラン)
7 ベネズエラ国営石油(PDVSA)(ベネズエラ)
その他の大手国営企業
ペメックス(メキシコ)
中国石油化工集団公司(シノペック)(中国)略称:“中石化”
中国海洋石油(中国)略称:“中海洋”(スヌーク)(CNOOC)
中国中化集団公司(中国)略称:“中化”(SINOCHEM) 旧:中国化工進出口総公司
ENI(イタリア)
・エクソンモービル コーポレーション (Exxon Mobil Corporation)
アメリカ合衆国テキサス州を本拠地とする総合エネルギー企業である。
国際石油資本であり、スーパーメジャーと呼ばれる6社の内の一社である。また民間石油会社としては世界最大の企業である。
日本においてもエクソンモービル有限会社を親会社とするエクソンモービル・ジャパングループを展開している。
第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いたセブン・シスターズ7社の内の一社である。
現在、エクソンモービルはスーパーメジャーと呼ばれる世界6大石油会社の一つであり、スーパーメジャーの中でも最大の企業である。
エクソンモービルは、エネルギー資源の探鉱・生産、輸送、精製、販売までの事業を垂直統合で一括で行っている。
日本でも、石油製品・石油化学製品の「精製・製造」および「販売」のビジネスを展開している。
また日本で、「エッソ」・「ゼネラル」・「モービル」の三つのガソリンスタンドのブランドを2005年時点で5917軒ビジネス展開している。
エクソンモービルは世界200カ国以上で事業展開をしている。
また21カ国に38の石油精製所を展開し、毎日の石油精製は630万バレルである。
エクソンモービルが保有している石油埋蔵量は2007年末で720億バレル換算とされ、現在の生産量で14年以上持つと予想される。
いずれも、サウジアラムコなどの国営石油会社を除く民間石油会社の中では世界最大である。
米国フォーチュン誌が発表する2008年フォーチュン・グローバル500では売上高ランキングで世界2位、純利益ランキングで世界1位。
英国フィナンシャル・タイムズ紙が発表する世界の企業の時価総額をランキングする2008年フィナンシャル・タイムズ・グローバル500では世界1位。
エクソンモービルは1999年に、エクソンとモービルが合併して出来た会社である。
元々は二社とも、ジョン・ロックフェラーが1870年に設立したスタンダード・オイルの流れをくむ企業であったが、1911年にアメリカ最高裁判所はスタンダードオイルを独占禁止法で34社に分割する判決を下した。
34社の内の2つがジャージースタンダード ( スタンダード石油会社ニュージャージー )は最終的にエクソンとなり、 Socony ( スタンダード石油会社ニューヨーク)は、最終的にモービルになった。
前身であるエクソンとモービルは、ともに第二次世界大戦後から1960年代まで、石油の生産をほぼ独占状態に置いた「セブン・シスターズ」と呼ばれる国際石油資本(メジャー)の1つであった。
・シェブロン (Chevron)
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンラモンに本社を置く石油関連企業。石油を始めとするエネルギー関連製品を扱う民間企業であり、現在世界の石油関連企業の中でも特に巨大な規模を持つ国際石油資本、いわゆるスーパーメジャーと総称される6社の内の一社である。
第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いたセブン・シスターズ7社の内の一社である。
1879年にアメリカ合衆国で「パシフィック・コースト・オイル」として創業し、1900年にスタンダード・オイルに買収され、その一部となった。
1911年に独占禁止法でスタンダード・オイルが34社に分割されると、「スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア」(通称:ソーカル)となる。
「スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア」は第二次世界大戦後から1960年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いた7社であるセブン・シスターズの内の一社である。
その後、1984年にガルフ・オイルと合併し、社名がシェブロンとなる。
石油やガスの探鉱、生産、輸送、精製、販売を垂直統合で一括で行っている。また化学薬品の製造販売、発電事業なども行っており事業規模は多方面である。
シェブロンは世界180ヶ国以上国でビジネス展開している多国籍企業である。
系列会社を含めて世界84カ国に販売ネットワークを持ち、約24000ヶ所以上の小売所を持っている。アメリカ、アジア、ヨーロッパの13の発電事業者の資産を保有している。
代替エネルギー分野では、燃料電池、太陽光発電、二次電池、バイオ燃料、水素燃料、地熱発電などへの投資を積極的に行っている。
テロ対策特別措置法に基づき日本政府がアメリカ海軍に供給している燃料はシェブロンからの購入である。
米国フォーチュン誌が発表する2008年フォーチュン・グローバル500では売上高ランキングで世界6位、純利益ランキングで世界7位。
・ロイヤル・ダッチ・シェル (Royal Dutch Shell)
オランダのハーグに本拠を置くオランダとイギリスの企業である。
世界第2位の石油エネルギー企業であり、スーパーメジャーのうちの1社である。
第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いたセブン・シスターズ7社の内の一社である。
現在、売上高4584億ドルで世界2位の民間石油エネルギー会社であり、ヨーロッパ最大のエネルギーグループである。
グループ企業は145の国に広がり、2008年現在104000人の従業員が働いている。世界中に47以上の製油所と、40000店舗以上のガソリンスタンドをグローバルに展開している。
ロイヤル・ダッチ・シェルの事業は、垂直統合で行っており、探鉱 、生産、輸送、精製、販売までの事業を一括でしている。
また事業の多角化を早くから行っており、ロイヤル・ダッチ・シェルは石油事業、ガス事業、石炭事業、化学事業、原子力発電事業、金属事業など様々な事業を保有している。
2000年代の初めからは代替エネルギーに力を注ぎ、太陽光発電 、風力発電、水素プロジェクトなどの新規分野にも積極的に投資をしている。同社が出資するロンドンアレイは、 2006年12月に世界最大の海上風力発電所を建設すると発表した。
米国フォーチュン誌が発表する2009年フォーチュン・グローバル500では売上高ランキングで世界1位、純利益ランキングで世界3位。
英国フィナンシャル・タイムズ紙が発表する世界の企業の時価総額をランキングする2008年フィナンシャル・タイムズ・グローバル500では世界9位。
シェルの歴史は、ユダヤ人マーカス・サミュエル(Marcus Samuel, 1st Viscount Bearsted、 後の初代バーステッド子爵)が来日した際に横浜の三浦海岸で見つけた貝が余りにも美しく、拾い集めた貝殻を持って帰国。貝殻細工の製造販売で財をなしてロンドンに開店した小さな骨董品店に始まる。カスピ海から輸入した貝殻が人気となり、利益も大きかったため、次第に事業を拡大して輸出入業へ乗り出し、世界最初の「タンカー王」となった。
後を継いだ息子たちは、石油事業に進出し、ボルネオ島の油田開発に成功した。
これが大規模なものに成長し、1897年にシェル・トランスポート&トレーディング・カンパニーを設立した。
社名は、貝殻を販売していたことと、出資者の家紋がヨーロッパホタテ(Pecten maximus、ホタテガイに近縁なホタテガイ属の1種)であったことにちなむ。
ロイヤル・ダッチの始まりは、インドネシアで石油開発を進めていたオランダ領東インド石油開発会社である。シェルとはライバルであったが、シェルに石油運搬を委託していた。
世界各地でアメリカのロックフェラー系のスタンダード・オイル(現 エクソンモービル)との競争が熾烈になったため、シェルとロイヤル・ダッチは石油の利権を確保するため業務提携し、1907年に事業提携して「ロイヤル・ダッチ/シェルグループ」を形成した。
1960年代以降ナイジェリアでも操業し、政府系企業などと合弁でシェル・ナイジェリアとして活動している。この事業提携が事実上の単一企業と看做されて98年続いてきた。
2001年ごろから傘下の油田の埋蔵量を下方修正するなど財務上の問題が明らかになり、株主よりコーポレートガバナンス(企業統治)上の透明性向上の要求から単一法人化を求める圧力が急激に高まっていた。
こうして、2005年5月、98年間続いた2社提携の状態に終止符が打たれ、両社は合併して単一の法人ロイヤル・ダッチ・シェルとなった。
ロイヤル・ダッチ・シェルは、2005年までオランダの事業親会社ロイヤル・ダッチ・ペトロリアム (正式会社名 N.V. Koninklijke Nederlandsche Petroleum Maatschappij、英名 Royal Dutch Petroleum N.V.) 、イギリスの事業親会社シェル・トランスポート&トレーディング (The Shell Transport & Trading Company plc) の2つの法人が 60:40の比率でアライアンスを組んだ状態(二元上場会社)が100年近く続いていた。
一般には、「ロイヤル・ダッチ/シェル (蘭・英)」というような表示をされて、便宜的に単一の会社であるように理解されていたが、あくまでも2社の事業提携(アライアンス)であり、単一の事業法人ではなかった。
・BP p.l.c.(日本名:ビーピー・ピーエルシー)
イギリスに本拠を置くエネルギー関連企業。 国際石油資本であり、スーパーメジャーと呼ばれる6社の内の一社である。
BPはBritish Petroleum(ブリティッシュ・ペトロリアム、英国石油)の略であったが、2001年に正式名がBP(ビーピー)となった。
第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いたセブン・シスターズ7社の内の一社である。
BPは石油やガスの探鉱から採掘、輸送、精製、小売まで一括で行う垂直統合でビジネスを展開している。
石油事業を世界中で手がける一方、他のスーパーメジャーと同じく、 天然ガスの生産や天然ガス利用の発電事業、太陽光発電、風力発電、石油化学製品の製造・販売などのビジネスを展開している。
ロンドン証券取引所、ニューヨーク証券取引所に上場している。
1909年 - ウィリアム・ノックス・ダーシー (William Knox D'Arcy) がアングロ・ペルシャン・オイル・カンパニー (APOC) を設立、イランの油田操業を開始。
1914年 - イギリス海軍と燃料供給についての長期契約を締結。イギリス政府がBPに200万ポンドを投資し、2/3の株式を取得。
1935年 - アングロ・イラニアン・オイル・カンパニーに改称。
1954年 - ザ・ブリティッシュ・ペトロリアム・カンパニー・リミテッド (The British Petroleum Co Ltd.) に改称。
1987年 - イギリス政府がBP株 (31.5%) を市場に放出し完全民営化。
1999年 - アメリカの石油会社アモコ (Amoco) と合併し、BPアモコ (BP Amoco plc.) となる。
2000年 - バーマ・カストロールとen:ARCOを買収。
2001年 - 社名をBP plc. に変更。
2008年 - 東京証券取引所上場廃止(申請による)。
2010年 - メキシコ湾原油流出事故が発生。被害回復のため、200億ドルを拠出することで、オバマ大統領と合意。
米国フォーチュン誌が発表する2008年フォーチュン・グローバル500では売上高ランキングで世界4位、純利益ランキングで世界4位。
・カーギル (英語:Cargill)
アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス市から少し西に行ったミネトンカに本社を置く穀物メジャーの1つである。
現在では穀物のみならず精肉・製塩など食品全般にビジネスの範囲を広げている。
カーギル社の企業形態は、株式の全部をカーギル家とマクミラン家の関係者が所有する同族企業であり、非上場企業としては世界最大の売上高を誇る。
秘密主義であり、情報の公開を義務付けられる公開会社としていない。
20世紀に資産が6000倍になる成長をしている。
ミネアポリスにある本社は、外観が古風な建物となっている。
古城のような外観から通称は「シャトー」。
内部は一大情報センターとなっており、全世界における穀物生産・消費の情報をもとに経営戦略が練られている。
穀物メジャーは石油メジャー同様、ビジネスの性格上政治と密接な関係を持つ場合がある。
第二次世界大戦後、日本において、米食からパン食や肉食に食習慣を変化させて穀物輸入)を増加させた米国の対日政策にも影響を与えたといわれる。
日本に子会社の「カーギル・ジャパン」を持つ。
1865年 創業者のウィリアム・ウォレス・カーギルがアイオワ州にて小さな穀物商を営み始める。次々と穀物倉庫を所有し規模を拡大する。
1906年 ミネソタ州に進出。
1909年 ジョン・H・マクミランが社長に就任(後にカーギル社の株式は、カーギル家(85%)とマクミラン家(15%)で持ち合うこととなる)。
1922年 ニューヨーク州へ販路を拡大。
1970年代 五大穀物メジャーが形成(他の4社はコンチネンタル・グレイン、ブンゲ、 ルイ・ドレフェス、アンドレ・ガーナック)。
世界の穀物取引を事実上支配することとなった。
1990年代 穀物メジャーの再編が進む。
1999年にはコンチネンタル・グレインがカーギルに買収され、最終的に2社(カーギルとアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド)に再編。
1997年に会社更生法を申請した東食(現:カーギルジャパン)を傘下に収める。
2000年の調べでは、従業員数48,000人、売り上げ476億ドル。
世界第2位のADM社を2倍も上回る売り上げと従業員数を誇る。
2009年度(2009年5月期)の売上高は1,166億ドル、純利益は33.3億ドル。
従業員は、世界67カ国、1,100拠点に138,000人を有する。
・アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド (Archer Daniels Midland,NYSE: ADM)
アメリカ合衆国の穀物メジャー。特に食用油の原料となる大豆や綿花、トウモロコシなどに強みを持つ。
1902年にミネソタ州ミネアポリスで創業。現在はイリノイ州中部のディケーターに本社を置いている。
バイオエタノール生産のため、パーム油生産量1位のインドネシア共和国へ進出を決定した。
2009年のアメリカ映画『インフォーマント!』(原題: The Informant! 原作はカート・アイケンウォルドによる小説。)は1990年代に実際に有った国際価格カルテル事件を元にした作品であり、事件の舞台となるアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド社や日本の味の素など、事件に関わった実在の企業や人物が実名で登場する。
・モンサント社 (Monsanto Company,NYSE:MON) は、アメリカのミズーリ州セントルイスに本社を持つ多国籍バイオ化学メーカー。
2005年の売上高は62億ドル、2008年の売上高は110億ドル、遺伝子組み換え作物の種の世界シェアは90%。研究費などでロックフェラー財団の援助を受けている。
また自社製の除草剤ラウンドアップに耐性をもつ遺伝子組み換え作物をセットで開発、販売している。
バイオ化学メーカーとして世界屈指の規模と成長性を誇り、ビジネスウィーク誌が選ぶ2008年の世界で最も影響力があった10社にも選ばれた。
1901年にジョン・F・クイーニイにより創業。モンサントという社名は妻のオルガ・モンサントに由来する。
1920年代頃から硫酸と化学薬品の製造で業績を上げ、1940年代からはプラスチックや合成繊維のメーカーとしても著名となった。
本社の存在するセントルイスには世界屈指の規模を誇るミズーリ植物園 (遺伝子保管用)があるが、モンサント社はここのハーバリウム(植物標本保存施設)の建設に多額の寄付をしていることでも知られている。
同社を有名にした商品の一つはPCBであり、アロクロール(Aroclor)の商品名で独占的に製造販売した。
日本では、三菱化成(現三菱化学)との合弁子会社であった三菱モンサント化成(現在は三菱樹脂へ統合)がPCB製造メーカーの一つであった。
また、農薬のメーカーとしても著名で、ベトナム戦争で使われた枯葉剤の製造メーカーでもある。
この枯葉剤には不純物としてダイオキシン類が含まれており、後に問題となった。
除草剤ラウンドアップを開発し、近年ではラウンドアップに耐性をもつ様々な遺伝子組み換え作物(ラウンドアップ・レディー: Roundup Ready)を分子育種して、セットで販売している。
なお、ラウンドアップの有効成分グリホサート(glyphosate)自体の特許は既に有効期限が切れている。
その他、雄性不稔や病害虫抵抗性やストレス抵抗性や成分改変の様々な組換え品種も開発している。
モンサント社の遺伝子組換え作物の強引なシェア確保商法に対して欧州を中心に問題となっている。そのため、農業分野における米国の世界支配を支える企業という批判の的となることがある。
上述のように遺伝子組換え作物に力を入れている企業である。多くの種苗会社の他、新たな遺伝子組換え品種や技術を開発した企業を吸収したり、それらの企業に資本参加している。
自社の開発した遺伝子組換え作物の種子を販売するに当たり、次回作には自家採種したものを利用しないとの契約を栽培農家との間で結んでいることが多い。そのため、その契約に違反して遺伝子組換え作物の種子を自家採種し以後の作付けに利用した農家に対して、知的財産権侵害として多くの訴訟を起こしたことから注目を集め、一定の批判を受ける事態が生じた。
また、"いわゆる"「ターミネーター遺伝子」を組み込んだ組換え品種を開発した企業を買収した。
いわゆる「ターミネーター遺伝子」や「ターミネーター技術」とは、遺伝子組換え作物に結実した種子を発芽できなくするものであり、農家による遺伝子組換え作物の自家採種を無効にしたり、遺伝子組換え作物による遺伝子の拡散や遺伝子汚染を防ぐために開発されたものである。
しかし、この技術の倫理性に疑問が投げかけられたために、これを用いた種子の流通はまだ行われていない。
発展途上国の農民が同社の遺伝子組換え作物の種子に頼りきりになった場合、品種特性の多様性の低さによる病虫害や品種と栽培地帯とのミスマッチ、種子の値段の高さからかえって農民が困窮するという場合もある。
例えば、1999年に世界第3位の綿花生産国インドに進出したモンサントは、害虫に強く、収穫量と利益を増やすという宣伝文句で、GMOの種子を販売した。
ところが、この種子に組み込んでいた害虫駆除の遺伝子は、インドにいる害虫にはほとんど効果がなく、しかも2006年は干ばつの影響もあって綿花栽培農家は打撃を受けた。
(インドに限らず干ばつや環境変化により世界中で被害が出ていると非難する向きもある。)
しかし、一方では実際にはBtワタの方が経済的な利益が多いという報告もある。
更に、The International Service for the Acquisition of Agri-biotech Applications (ISAAA)の新しい調査によると、現在ではインドの各地方に適した様々な遺伝子組換え品種が開発されており、インドにおいて2008年には綿花栽培面積の80%が、2009年には87%(約840万 ha)がBtワタになっている。
2009年には560万人の小農がBtワタをインドで栽培している。
遺伝子組換えワタを導入する以前と比較すると綿花栽培に使用される農薬使用量の大幅な減少と単位面積当たりの収量の大幅な増加(2001-2002年では308 kg/ha、2009-2010年では568 kg/ha)によって、実際にはインドの農民に広く受け入れられている。
カーギル - モンサントと組み、遺伝子組み換え作物の販売拡大を行っている。
・ベクテル (Bechtel Corporation ; Bechtel Group)
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに本拠を置き、総合建設業を営む多国籍企業。
石油コンビナート、発電所、ダム、空港、港湾などの建設を請け負う世界最大級の建設会社。
1930年代 フーバーダムの建設に参加
2003年4月17日 イラク復興事業で、発電施設や水道、空港などのインフラ整備で総額6.8億ドルの受注を発表
2006年6月より、ロスアラモス国立研究所を運営する連合組織Los Alamos National Security(LANS)に、カリフォルニア大学、ニューメキシコ大学、ニューメキシコ州立大学、BWX Technologies、Washington Group Internationalらとともに参加している。
フーバーダム 1936年完成
トルコのBekme 水力発電所ダム 1991年完成
イラクの石油化学工場 1991年完成
インドのダホール火力発電所1号機 1992年完成
湾岸戦争後のクウェート復興 1993年完了
英仏海峡トンネル 1994年完成
香港国際空港 1998年完成
カザフスタンのテンギス油田en:Tengiz Field開発 1999年完成
アニストン (アラバマ州) の化学兵器処理施設 2001年完成
トルコの天然ガス火力発電所3基 2002年完成
ロシア・マヤークen:Mayak,オジョルスクの核分裂物質貯蔵施設 2002年完成
ブラジル・パラナ州アラウカリアen:Araucariaの発電所 2003年完成
ペルーのホルヘ・チャベス国際空港の拡張 2005年完成
マサチューセッツ州ボストンの高速道路トンネル "Big Dig" 2007年完成
クロアチアのザグレブ-スプリト高速道路再建 2008年完成
テネシー州オークリッジ国立研究所近くの核兵器工場 "Y-12" 、および、濃縮ウランの貯蔵施設 2009年完成
アルバニアの高速道路 Rreshen-Kalimash Highway 2010年完成
新ドーハ国際空港 2011年完成予定
新マスカット国際空港ターミナル 2014年完成予定
ルーマニアのトランシルヴァニア高速道路ro:Autostrada A3 (Romania) 2016年完成予定
ダラス都市鉄道延伸 2016年完成予定
韓国の古里原子力発電所3号機・4号機の設計
創業者ウォーレン・べクテルen:Warren A. Bechtel (1872年9月12日 ? 1933年8月28日)は、オクラホマ州で牧場経営に失敗した後、1898年、急成長中であった鉄道産業の使用人として事業を開始した。それから20年間、ウエスタンパシフィック鉄道をはじめとして鉄道や高速道路建設を請け負った。1919年以降、共同事業者とともに高速道路・水道トンネル・ダムなどを建設した。
息子のステファンen:Stephen David Bechtel, Sr. (1900年9月24日- 1989年3月14日)、その子ステファン・ジュニアen::Stephen D. Bechtel, Jr. (1925年5月10日 ?)を経て、創業者の曾孫ライリー・べクテルen:Riley P. Bechtel(1953年 ?)が現在の最高経営責任者を務めている。
会社の所有と経営はべクテル一族に担われており、ライリーやステファン・ジュニアはいずれも総資産30億ドル(2009年)を有するアメリカを代表する富豪の一人である。
ジョージ・シュルツは1974年、社長に就任。その後1982年7月16日第60代アメリカ合衆国国務長官に指名された。
ジョン・マコーンは1937年、二代目ステファン・ベクテルの共同経営者となりベクテル・マコーン社を設立、ステファン・ベクテルが会長、マコーンは1945年まで社長を務めた。
その後国防次官、空軍副長官、原子力委員会委員長を歴任。
日本法人はオーバーシーズ・ベクテル・インコーポレーテッド株式会社で、東京都千代田区丸の内3-2-3に本社が置かれている。
青森県の日本原燃六ヶ所再処理工場の工場設備建設に技術参加。
・ゼネラル・エレクトリック(英語:General Electric、略称:GE、NYSE:GE)
世界最大のコングロマリット(複合企業)であり、売上高世界第二位のメーカーである(時価総額と純利益は、メーカーとしては世界最大)。
本社はアメリカ合衆国コネチカット州。ダウ平均株価の構成銘柄のうち、1896年5月26日の算出開始以来唯一残存している企業である。
電気機器(発電機、照明、生産設備、医療用画像機器、モーター)、インフラストラクチャー(航空機エンジン、発電所、水素電気車両、原子力・水力発電)、素材産業(プラスチック、シリコン、研磨剤)、メディア産業(NBCユニバーサル)、軍事産業(ロケットエンジン、宇宙開発)、金融事業(投資信託、M&A、銀行、信販)など幅広い分野でビジネスを行っている。
どのビジネスもその産業分野でのシェアが1位か2位であることをビジネス存続の条件としている。
この方針は、1981年から2001年までCEOを務めたジャック・ウェルチが同職に就任以降に打ち出された。
彼は一連のGE改革の成果から、“20世紀最高の経営者”と呼ばれ、その経営手法は多くの経営者に模倣された。
数々の経済雑誌やメディアから「世界でもっとも尊敬される企業」や「最強企業」と称され文字通り世界を席巻している。
現在は各ビジネスのブランドに共通感を持たせ(GEキャピタルは金融関係。GEエナジー・インフラストラクチャはエネルギー関係。NBCユニバーサルはメディア&エンターテイメントなど)、ジェフリー・イメルト会長の下、成長を続けているが、方向性を若干修正し、シェア拡大よりも事業の分散投資をより重視することを前面に押し出した。
大きな利益を上げていた保険事業をスイス再保険へ売却した事例はその典型である。
現在は全体の事業の中でもGEマネーが非常に大きなシェアを占めているが、GEテクノロジー・インフラストラクチャがボーイングの新型機787およびエアバスA380/350のエンジン開発で先頭に立つなど、依然として世界最強企業の名をほしいままにしている。
また社員が非常に猛烈に働く企業であり、「人材創出企業」としても有名(ボーイング、先代3MのCEOなど)。
2008年開催の北京オリンピックでは公式スポンサーを務めた。
連邦倒産法第11章を適用し経営再建したデルタ航空の再建スポンサーとなり、また新たに開発したエボリューション・シリーズと名づけられた最先端のディーゼル機関車を中国から大量受注するなど、経営は当時いたって好調であった。
その一方で2008年には、創業以来の基幹事業であり、前年度決算で初めて減益を記録した家電部門の売却を検討するなど、ウェルチが打ち出した「選択と集中」を基本とする経営方針の徹底ぶりも健在である(なお、家電部門の売却先としては、ハイアールやLG電子が挙げられている)。
しかし、2008年8月のいわゆる「リーマン・ショック」に端を発した金融危機の影響で、金融事業を中心に大きな打撃を受けた。
2009年3月には米スタンダード&プアーズ(S&P)による債務格付けが、長年保持してきた最高格付けである「トリプルA」から「AAプラス」に一段階引き下げられたほか、2009年10~12月期までの決算が8四半期連続連続減益となるなど苦戦を強いられている。
米国フォーチュン誌が発表する2008年フォーチュン・グローバル500では売上高ランキングで世界12位、純利益ランキングで世界3位。
英国フィナンシャル・タイムズ紙が発表する世界の企業の時価総額をランキングする2008年フィナンシャル・タイムズ・グローバル500では世界3位。
・ウォルマート (Wal‐Mart)
アメリカのアーカンソー州ベントンヴィル に本部を置く世界最大のスーパーマーケットチェーンであり、売上額で世界最大の企業である。
創業者サム・ウォルトンが、1962年7月2日に最初のウォルマート・ディスカウント・シティを、アーカンソー州ロジャーズに開いた。その後様々なフォーマットを展開している。EDLP(Every Day, Low Price)を掲げ、低価格、物流管理、コスト削減などを推し進め急速に成長し、世界最大の売上げを誇る企業となった。
現在、世界15か国に進出し、日本では西友を子会社化して展開している。
創業者サム・ウォルトンの親族であるクリスティ・ウォルトン、ジム・ウォルトン、S. ロブソン・ウォルトン、アリス・ウォルトン、ヘレン・ウォルトンの5名は、フォーブス発表による世界長者番付(2006年度)の17-21位を占めており、一族の総資産は8兆円に及ぶ。これは一位のビル・ゲイツ(総資産5兆9000億)を超える。
創業者による事業は、サム・ウォルトンが1945年にアーカンソー州ニューポートにベン・フランクリン雑貨店を開いたことに始まる。
1946年、弟のジェームズ・L・ウォルトンが、ミズーリ州バーセイルズに同様の店を開いた。
サム・ウォルトンは、1950年に当時人口1万人にも満たなかったアーカンソー州ベントンヴィルでウォルトンズ5&10を開業。1962年まで創業者の事業は雑貨店の経営に限られていたが、同年7月2日、ディスカウントストアである最初のウォルマート・ディスカウント・シティを、アーカンソー州ロジャーズに開いた。
アメリカにおいては、小規模商店や地元資本の小規模スーパーマーケットしか存在しないような小都市に進出し、安売り攻勢で地元の競合商店を次々倒産に追い込んだ挙句、不採算を理由に撤退するという形で地元の経済を破壊する事例、いわゆる買い物難民の発生が相次いだため、進出計画を反対される案件が相次いでいる。
また、安価な輸入品(特に中華人民共和国製)を多く販売するため、アメリカの製造者団体等から「自国の雇用をないがしろにして自社の利益の向上のことしか考えていない」という批判を受け、積極的に自国製品(外国においてはその国の製品)を取り入れるという姿勢を取り始めている。
従業員の労働条件の悪さも有名であり、低賃金の非正規雇用従業員を多用して、正社員としての本採用に消極的な上に、労働組合が無いばかりか組合結成の動きがあれば社員を即刻解雇するなどの不当労働行為が後を絶たない。
『WAL-MART 世界一の巨大スーパーの闇』というドキュメンタリー映画で種々の不正や各地での新規出店阻止活動の成功が紹介された。
ウォルマートが急激に伸びたのは1960年代から70年代で、この時期には多くの町がウォルマートの新規出店を熱心に誘致した。
しかし1996年にウォルマートの店舗数はピークを迎えた後、減少に転じている。
この理由として挙げられるのは、ウォルマートの出店が地元にあまり大きなプラスとはならないことが、それまでの各地の経験から明らかになってきたことである。
具体的には、上記のような地方の小都市の地元の経済を破壊した上での撤退が相次いでいる事、景観や環境の悪化、他の小売店舗の売り上げへの悪影響、新たに創出される雇用の殆どが時給4ドルから7ドルで健康保険も無い低賃金の販売員の仕事であること、にもかかわらずウォルマートから得られる税収はさほど大きくないこと、利益の多くはウォルマート本部に吸い上げられ、地元のキャッシュ・フローが減少することなど。
また米国内の既存店も売上が伸びず、苦戦している。
原因は、従業員の士気の低下によってサービスの質が落ち、顧客満足度が低下していることにあるとされる。
顧客満足度に問題があることは経営陣も認識しているものの、改善には到っていない。
販売形態こそ違うが、日本における家電量販店的な役割も果たしているため、家電メーカーがシェア争いを繰り広げる場としても注目を浴びる。
例えば、2007年のクリスマス商戦では、次世代光ディスクの規格競争を繰り広げていた東芝は、HD DVDプレイヤーを、採算を度外視した99ドルの価格で投入し話題となった。
これはアメリカ国内のDVDソフトの4割近くがウォルマートで販売されている背景があり、安価なハードによりソフト業界の囲い込み行うという発想から実現したものである。
また2008年2月にはHD DVDに対して優勢となっていたライバル規格Blu-ray Discの支持を表明、直後に東芝をHD DVD撤退に追い込んだ大きな要因の一つとなった。ウォルマートの産業界への影響力を印象づける結果となった。
・エンロン(Enron Corp.、2007年3月にEnron Creditors Recovery Corp.に改称)
アメリカ合衆国テキサス州ヒューストンに存在した、総合エネルギー取引とITビジネスを行う企業。
2000年度年間売上高1,110億ドル(全米第7位)、2001年の社員数21,000名という、全米でも有数の大企業であった。
しかし、巨額の不正経理・不正取引が明るみに出て、2001年12月に破綻に追い込まれた。
破綻時の負債総額は諸説あるが少なくとも310億ドル、簿外債務を含めると400億ドルを超えていたのではないかとも言われている。
2002年7月のワールドコム破綻まではアメリカ史上最大の企業破綻であった。
エンロンの起源は、1931年に数社のエネルギー(ガス・電力・パイプライン)関連企業が集まってできたノーザン・ナチュラル・ガスにさかのぼる。
1979年に同社は企業再編を行い、持株会社としてインターノースを設立した。
ガス業界の規制緩和によって業界再編が進む流れの中で、1985年にインターノースがヒューストン・ナチュラルガスと合併してエンロンが誕生した。
この合併はインターノースがヒューストン・ナチュラルガスを買収する形で行われたが、本社は後者の本拠地であったヒューストンに置かれ、なおかつ後者のCEOであったケネス・レイが合併会社のCEOに就任し、2001年の破綻に至るまで実権を握っていた。
1980年代の暮れには、業界の先端を走るようにガス取引に積極的にデリバティブを取り入れ、企業規模を拡大していった。
経済学を学んだスタッフを多く抱え、エネルギー業界に限らないキャッシュ・フロー経営の最先端企業ともなり、アメリカの投資バブルにも支えられ、安定した経営をアピールした。
こうした一方、1980年代暮れには粉飾会計に手を染めていた。
1990年代のうちに、時価主義会計を利用して見かけ上の利益を水増しする、当時でも合法ぎりぎりの会計も積極的に利用して売上・利益を増大させていった。
さらに、インサイダー取引についても、1980年代から行われていたことが明らかになっている。
1990年代後半には、デリバティブで電力価格がわかりにくくなっているのを利用して、同じ電力に対して同量の売りと買いを発生させて実質の取引量がゼロであるにも関わらず売上を上げる取引も積極的に取り入れた(循環取引)。
空売りなどによる売上・利益確保は2000年のカリフォルニア電力危機においても積極的に行われたため、この危機の原因の一つともなった。
1998年には利益に占めるデリバティブ比率は8割を越えた。
カリフォルニアの大停電に関しては、電気の値段を吊り上げてもっと利潤を増やすために、電気の供給を止めてしまい、エンロンの従業員達が電話で話しているところを聴くと、電気が止まったために困っているお年寄りをネタにして笑ったりしており、全く罪の意識を感じていなかった。
この裏では、取引損失を連結決算対象外の子会社(特別目的事業体:Special Purpose Entity, SPEと省略される)に付け替えて簿外損失とすることも積極的に行われた。
会計を全米有数の会計事務所であったアーサー・アンダーセンが担当していたために、決算における市場の信頼は厚かったが、実際にはアーサー・アンダーセンならびに顧問法律事務所も、数々の違法スレスレのプロジェクトの遂行や粉飾決算に加担していた。
損失を簿外に隠蔽するプロジェクトの例として、ADSLをベースとするISPであったリズムス・ネットコネクション株に関するLJMプロジェクトがある。
エンロンはリズムス株を1998年3月に1株あたり1.85ドルで買収したが、1999年4月に同社が上場すると上場日の終値は69ドルにもなり、その後も上昇を続けたため、エンロンが採用していた時価会計によって評価益が発生した。
しかし、実際には契約によりエンロンはリズムス株を4年間売却することができず、あくまでも経理上の評価益にとどまっていた。
このリズムス株の値下がりリスクをヘッジするという名目で、エンロンはSPEであるLJMパートナーズを設立した。
最大で3億ドル近くあった評価益を、エンロン本体は1億ドルのみ計上して、残りの2億ドル程度をLJMに移管し、その代わりにリズムス株が値下がりした場合の損失はLJMが負担することとした。
しかし、LJMは巧妙に連結対象外となるように仕組まれてはいたものの、事実上はエンロンと一体のものであり、リズムス株がその後急落して評価損が出るとその損失を簿外に隠蔽する役割を果たした。
さらに、LJMの設立にあたっては、CFOのアンドリュー・ファストウをはじめとする幹部がエンロン本社の取締役会の承認を得ずにLJMの役員を兼任して高額の報酬を得ていたり、アーサー・アンダーセンや顧問法律事務所にも多額の手数料が渡っていた。
リズムスはその後2001年8月に破綻したため、本来であればエンロン本体として計上すべき1億ドルの損失が隠蔽されることになった。
LJMの場合には当初の設立目的は損失隠しではなく、結果的にその役割を果たすことになったが、後には多くの特別目的事業体=SPEが最初から巨額の損失を簿外に隠蔽する目的で設立された。
1999年に設置した「エンロン・オンライン」においては、電力だけでなく、元々エンロンのフィールドであったガス・石油をはじめ、石炭、アルミニウム、パルプ、プラスチック、果ては信用リスク、天候、ネットワーク帯域幅、排ガス排出権に至るまで、あらゆる商品の市場をインターネット上に開設し、そのすべてでエンロン自体が売り手・買い手として取引を行った。
そのため、表面上の売上・利益は急激に拡大していった。
このエンロン・オンラインのアイデアとシステムは、稼働当時はもちろん、エンロン破綻後も高く評価されていた。
しかし、ビジネスモデルが手数料ビジネスではなく自ら売買を行うトレーディングであったにもかかわらず、これまで経験のない商品の市場にも積極的に乗り出していったために、もともとその市場にいたプレーヤーにいいように利用された面もあった。
折からのアメリカにおけるITバブルの波にも乗り、1990年代後半にはエンロンは革新的でなおかつ安定した成長を続ける超優良企業としての名声を確立していった。
エンロンはロビー活動にも積極的であり、2000年の大統領選挙の年には共和党・民主党の双方に対して合計で20億ドル以上という高額の政治献金を行った。
2000年5月にはエンロン・ジャパンが設立され、丸紅の発電関連部門などから人材を引き抜いて陣容を拡大していった。
さらに、「契約するだけで、大口顧客に対して在来の電力会社の電力料金より最大で10%安価に電力を供給する」サービスを発表したり、関係会社のエンコム(後にイーパワーに改称)と共に、青森県や山口県で火力発電所を建設する計画を発表した。
当時の日本の電力業界は「黒船襲来」として真剣にエンロンの日本進出に対する対応を検討した。
マスコミでも大きく報道され、その内容も電力自由化にともなう電力料金引き下げへの期待からおおむね好意的であった。
(注:ソフトバンク孫正義のメガソーラー計画を彷彿とさせるが、おそらく孫のアイディアの原型そのものもこちらに由来するのであろう。)
2000年8月にはエンロンの株価は90ドルを超えた。
この時点で経営陣は「株価は130ドルから140ドル程度まではこのまま上昇するだろう」との見通しを提示し、アナリストもエンロン株を「ストロング・バイ」として推奨した。
そのため、年金基金などの堅実で知られる投資主体も、エンロンの株・債券をポートフォリオに組み入れていった。
カリフォルニア電力危機で経理上は大きな利益を上げたものの、この危機で2001年2月にパシフィック・ガス&エレクトリック社が倒産したため、実際には同社に対する数億ドルにも上る債権が回収不能となった。
2001年夏には、インド・ダボール発電所、アズリックス(水道事業)など、海外での十億ドル単位の大規模事業の失敗などが明るみに出始め、株価もゆるやかに下落を始めた。
2001年10月16日に発表された第三四半期報告では赤字が発表された。
それでもアナリストはこれをそれほど問題視しなかった。
2001年10月17日、ウォールストリート・ジャーナルがエンロンの不正会計疑惑を報じた。
株価はこの日から急落する。証券取引委員会(SEC)の調査も始まった。
11月6日、同じヒューストンに本拠を置くパイプライン企業であるダイナジーが合併に名乗りを上げ、エンロンは崩壊を免れるのではないかとの観測もいったんは流れた。
しかし、SPEの特殊なスキームによってエンロンの株価が一定額を下回るとエンロン本体に巨額な債務が発生することが判明し、それがさらにまた株価を押し下げるなど、状況は加速度的に悪化した。
さらには数々の不正経理が明るみに出るに及んで、11月28日買収交渉は決裂した。
その結果、12月2日にエンロンは連邦倒産法第11章適用を申請し、事実上倒産した。
エンロンに投資していた投資家、ならびに自社株を401kプランに組み込んでいた従業員など多くの関係者が巨額の資産を失い、あるいは損失を抱えることとなった。
その中で、CEOケネス・レイ、CFOアンドリュー・ファストウ、COO(一時期ケネス・レイの跡を継いでCEOとなった)ジェフ・スキリングなど、会社の中枢にいた経営陣ならびにその家族は2000年夏以降の株価下落局面において大量のエンロン株を売り抜けており、インサイダー取引の疑いでSECの調査・訴追を受けることとなった。
監査を担当しながら、一方で会計粉飾やその証拠の隠蔽に関与していたアーサー・アンダーセンの信用は失墜し、世界5大会計事務所の1つと言われた名門会計事務所は2002年に解散を余儀なくされた。
エンロンとワールドコムと合わせ、アメリカのみならず世界を代表する3社もの巨大企業と信用を短期間で失ったアメリカ経済は大きな混乱に陥り、世界経済にも大きな影響を及ぼした。
共通点を指摘されるワールドコム破綻とも関連して会計・監査・情報公開などの制度見直しのきっかけとなり、2002年7月には上場企業会計改革および投資家保護法(通称SOX法)が制定された。
エンロンの株価が20ドル以下となった2001年10月においても、まだ多くのアナリストがエンロン株を「ストロング・バイ」と推奨していたことは、アナリストの客観性・状況対応能力に対する信頼を失わせる結果となり、コンピュータによる客観的・機械的な格付けモデルの進歩を促した。
>「ビジネスの世界に数学の虚数概念を応用した」ビジネスモデル
なお2006年1月に、日本のライブドアの不正経理発覚に端を発したライブドア事件が発生している。
同社の家宅捜索が報道されると翌日から上場株価の殆どが暴落するライブドア・ショックが起こる。ライブドアは、連結外を装った投資ファンドを使い、なおかつ自社株を使った資金調達や不適切な利益操作、本業を忘れ、バーチャル事業を中心に買収によって事業を拡大する行き過ぎた多角化経営、政治への関与の意欲など、エンロンとの共通点が数多く指摘されている。
相違点としては、エンロンが数兆円、ライブドアは約50億円の不正経理だということが挙げられる。
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この件でエンロンの重役と団体役員、ならびに監査役は同様の行為を行った他社の関係者と共に「ビジネスの世界に数学の虚数概念を応用したことに対して。」としてイグノーベル賞経済学賞に受賞している。
・リーマン・ブラザーズ (Lehman Brothers)
アメリカのニューヨークに本社を置いていた大手投資銀行及び証券会社。"Lehman" の日本での読み方は「リーマン」で定着しているが、英語圏では通常「LAY-mun/レイマン」と発音される。
ドイツ南部から移住したアシュケナジムユダヤ系移民、ヘンリー、エマニュエル、マイヤーのリーマン兄弟によって1850年に創立され、米国第四位の規模を持つ巨大証券会社・名門投資銀行の一つとされていたが、2008年9月15日に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)の適用を連邦裁判所に申請し倒産した。
世界金融危機顕在化の引き金となり、世界経済に大きな影響を与えた(後述)。
倒産するまでAAAの格付けを受け、世界経済の中枢とも言える存在であった。
1844年、23歳のヘンリー・リーマンはバイエルン王国のリムパーという町からアメリカに移民し、アラバマ州モンゴメリーで日用品店「H.リーマン商店」を開いた。
弟のエマニュエルとメイヤーが相次ぎ移民して来たために、1850年に店名をリーマン兄弟商会(リーマン・ブラザーズ)に変更する。
当時、アメリカ合衆国南部では綿花生産が盛んで、兄弟は客から支払いで現金の代わりに綿花の現物を受け入れたことをきっかけに、綿花取引に経営の重点を移し、当時綿花取引の中心となりつつあったニューヨークにも事務所を構えた。
1855年に長兄ヘンリーが死去。残ったエマニュエルとメイヤーが経営を引き継ぎ、南北戦争で南部連合が敗戦した後は、アラバマ州の復興を資金面で支えた。
間もなく本部をニューヨークに移す。
1870年にはニューヨーク綿花取引所が開設され、リーマンもこれに協力、エマニュエルは同取引所の取締役を1884年まで務めた。
この頃、リーマンは鉄道建設債券市場に参入し、現在の主力業務でもある金融アドバイザリーを開始した。
1887年にはニューヨーク証券取引所の会員になる。1899年には、同社初となる社債の引き受け(International Steam Pump Company)を行った。
創業者エマニュエルの息子で2代目社長のフィリップは、ゴールドマン・サックス(GS)との提携を進め、GSとともに20年間で100社以上の社債を引き受けた。
フィリップは1925年に退任し、その息子ロバートが跡を継いだ。
世界恐慌を受けて、一時経営危機に陥ったものの、個人投資家や合併を積極的に支援することでこれを乗り切った。
現在のリーマンのベンチャーキャピタル業務の原点である。
1929年、リーマン・ブラザーズから投資業務を分社化し、リーマン・コーポレーション(Lehman Corporation)を設立した。もっとも、経営陣の多くはリーマン・ブラザーズと兼務していた。
数年後、リーマン社史上の大きな転換点となる、資産管理業務に参入する。
社長のロバートは、リーマンの更なる成長と拡大を目指すにあたり、それまで続いてきた同族経営の体質を是正しようとした。
1924年には、リーマン一族以外では初となる共同経営者ジョン・M・ハンコックを招き入れ、1927年にはモンロー・C・ガットマンとポール・メイザーが加わった。
1969年にロバートが死去して以降は、リーマン一族が経営を支配することは無くなった。
ところがこの結果、リーマンは社の大きな求心力を失ってしまうこととなる。
この事態の打開のため、1973年には、ベル&ハウエル社のCEOピーター・ピーターソンが経営に参加した。
会長兼CEOに就任したピーターソンの主導のもと、アブラハム&カンパニーを1975年に買収。
1977年には、当時経営が低迷していたクーン・ローブと合併し、リーマン・ブラザーズ・クーン・ローブ(Lehman Brothers, Kuhn, Loeb Inc.)へ改称。
ピーターソンは、多額の赤字経営からリーマンを救済し、投資銀行の中でも特に収益率の高い、記録的な黒字決算を5年連続で実現させた。
こうして会社全体としては成長を続けたものの、花形である投資銀行業務を担当する社員と、その一方で実際の収益拡大にはより貢献していたトレーダー社員との間で確執が生じるようになった。
このためピーターソンは1983年、社長兼COOでトレーダー出身のルイス・グラックスマンを共同CEOに就任させた。
グラックスマンは賞与制度などの改革により、競争的な社風を築こうと試みたが、かえって社員の精神的ストレスの原因を作ることとなった。
経営方針を巡り2人のCEOも対立するようになり、ピーターソンが追い出される形で、グラックスマンが単独CEOとなった。
こうした社内の混乱を嫌った社員はリーマンを去っていき、リーマンは崩壊の危機に瀕する。
1984年4月、グラックスマンはリーマンの身売りを迫られ、同社をアメリカン・エキスプレスに3億6,000万ドルで売却した。
持株会社シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレス(Shearson Lehman/American Express)を設立したのち、1988年、シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレスはさらにE・F・ハットン&カンパニーを吸収、シアーソン・リーマン・ハットン(Shearson Lehman Hutton Inc.)となった。
1993年に就任した新CEOハーベイ・ゴルブのもと、アメリカン・エキスプレスは事業の集中と選択を進め、リテール分野と資産管理業務をプライメリカに売却。
1994年、さらにプライメリカが同事業を分離し、リーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)として株式をニューヨーク証券取引所に再上場させた。
この再上場の後も、たびたび買収の対象として噂されたが、リーマン・ブラザーズはこれを重ねて否定。実際、業績の推移は順調で、収益を拡大させていた。
しかし投資銀行業界の中では比較的弱体であったことへの危機感は強く、1999年には事態の打開策として危険性の高いサブプライム・ローンの証券化をいち早く推進するというハイリスク・ハイリターンの方針を打ち出した。
これがアメリカの低金利政策による住宅バブルの到来と軌を一にし、業績の拡大に成功する。
アジア方面に対する積極的な投資も特徴であった。日本との関係で有名なことは、古くは、リーマン・ブラザーズに統合される前のクーン・ローブが日露戦争の戦費調達のための日本国債を引き受けたことである。
近年では、ライブドアへの投資(転換社債型新株予約権付社債)である。
日本でのオフィスは東京・六本木ヒルズの29~32階にあり、アジア太平洋地域の統括本部でもある。
2005年にはアジア(特に中国市場)の高成長と住宅バブルの昂進に後押しされ、ゴールドマン・サックス、メリルリンチといった強豪を抑えて投資銀行における最大手に躍進することとなった。
サブプライム・ローンの高いリスクを背負うことで事業を拡大させたリーマンであったが、それに潜在していたリスクは最終的にはリーマンそのものを破滅させる原因ともなった。
住宅バブルが崩壊し、ローンの焦げ付きが深刻化したのである。
2008年3月に大手証券会社で財務基盤に問題はないと繰り返し発表してきたベアー・スターンズが事実上破綻(JPモルガン・チェースによる救済買収)した際に、株価が2日間で一時54%以上暴落した。
財務基盤が盤石であったはずのリーマン・ブラザーズの流動性も心配される事態とまでなったが、その後、FRBによる証券会社への窓口貸出アクセス等の報道により株価は落着きを取り戻したかに見えた。
しかし、サブプライムローン(サブプライム住宅ローン危機)問題での損失処理を要因として、同年9月には6?8月期の純損失が39億ドルに上り、赤字決算となる見通しを公表。
発表直後に株価は4ドル台にまで急落した。
最終的にリーマンは負債総額にして約64兆円という史上最大の倒産劇へと至り、リーマン・ショックとして世界的な金融危機を招く事になる。
リーマン破綻直前、アメリカ合衆国財務省やFRBの仲介の下でHSBCホールディングスや韓国産業銀行など複数の金融機関と売却の交渉を行っていた。
日本のメガバンク数行も参加したが、後の報道であまりに巨額で不透明な損失が見込まれるため見送ったと言われている。
最終的に残ったのはバンク・オブ・アメリカ、メリルリンチ、バークレイズであったが、アメリカ政府が公的資金の注入を拒否していた事から交渉不調に終わるに至った。
しかし交渉以前に、損失拡大に苦しむメリルリンチはバンク・オブ・アメリカへの買収打診と決定がなされ、バークレイズも巨額の損失を抱え、すでにリーマンブラザーズを買収する余力などどこも存在していなかったという。
最終的には、同年9月15日に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)の適用を連邦裁判所に申請し破綻した。
連邦倒産法第11章の申請直前、CEOリチャード・ファルドは個人で保有するリーマン株をすべて売却している。
負債総額は6,130億ドル(当時の日本円で約64兆5000億円)と米国史上最大の倒産となった。
その後、ベアー・スターンズの経営危機・フレディマックとファニーメイの実質的破綻を含めた金融危機に対処するため、合衆国政府は緊急経済安定化法をまとめ、29日に下院で採決したが、伝統的な「自己責任」の価値観と、事の重大性を十分に認識していなかった議員の存在により否決され、世界中の投資家を失望させた。
事実、この日のダウ平均株価が終値で777ドル安を記録し、算出開始以来最大の下げ幅を記録。そして全世界の株式市場の株価を瞬時に暴落させた。
10月10日、国際スワップデリバティブ協会(ISDA)は、リーマンのクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の清算価値が入札の結果8.625%に決定したことを発表した。
市場の推計ではリーマン関連のCDSの契約残高(想定元本)は約4000億ドルといわれており、この91.375%(約3,655億ドル)が損失となり、CDSを引き受けた金融機関などが損失をかぶることになった(ただし相殺分を考慮すると数分の一になる)。
・ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs, NYSE: GS)は
アメリカの金融グループであり、世界最大級の投資銀行である。歴史は古くドイツ出身のユダヤ系のマーカス・ゴールドマンによって1869年に設立された。
モルガン・スタンレーやシティグループ等とともに、投資銀行業務の幅広い分野においてリーグテーブル上位に位置する名門投資銀行と言われている。
取引業務(株式、債券、通貨などの金融資産や不動産の売買、資金の貸付)、投資銀行業務、富裕層へのプライベート・バンキング、保険業務を主としている。
ニューヨーク(ウォール街)、シカゴ、フランクフルト、ロンドン、東京(六本木)、香港、サンパウロといった主要な金融都市に拠点を置く。現在のCEOはロイド・C・ブランクファイン、前CEOは第74代米国財務長官のヘンリー・ポールソン。在日法人の代表取締役社長は持田昌典。
社員の平均ボーナスが6500万円を超えるという報道でも有名な会社(但し、この数字は支給総額を社員数で割った単純平均であり、実際は大多数の社員のボーナスはより低い。例えば、ブランクファインCEOの2007年度のボーナスは68億円で、一部のシニアバンカーとフロント部門の巨額なボーナスが全体の平均をかなり押し上げている)。
ただし、2008年度のボーナスはサブプライムローンの影響を受け大幅に減少するなど、年によるばらつきが極めて大きい。
2008年に大きな問題となったサブプライムローン問題においては、他の金融機関と比較して相対的に、被害を受けていない金融機関の一つである。
但し、財務内容は急速に悪化する情勢は否定できず。金融危機対策として、連邦準備制度理事会の支援と管理が受けやすい銀行持ち株会社に急遽移行することが決まった。
政府高官ポストへの人材供給源という意味で、伝統的に(米国)政府との結びつきが強く、他の大手銀行以上に巨額の税金投入を迫られたAIG救済も、ゴールドマン前CEO兼会長であった当時のポールソン財務長官の意向によるところが大きかったとされる(AIGが破たんしていれば、ゴールドマンはAIGとの間で締結されていたCDS契約により1兆円を超える巨額損失を免れなかった。)。
・バンク・オブ・アメリカ (Bank of America (BofA) NYSE: BAC)
アメリカ合衆国、ノースカロライナ州のシャーロット市に本社を置く銀行である。バンク・アメリカ・コープ社がバンク・オブ・アメリカを所有している。バンク・オブ・アメリカは「バンカメリカ」あるいは「バンカメ」の略称で呼ばれることもある。
1998年 - ネーションズバンク社とバンク・アメリカ社の合併によってバンク・オブ・アメリカ・コープ社が誕生した。
2008年9月15日、米国第3位の投資銀行 メリルリンチ(総資産1兆0200億ドル。2007年12月現在)を1株29ドル、総額500億ドルで買収することを発表。
2009年1月1日、メリルリンチをグループ傘下におさめ、アメリカ最大の民間金融機関となった。
バンク・アメリカは、1992年に次の大きな利益を得る。
バンク・アメリカはカリフォルニアでライバル社であったセキュリティ・パスィフィック・コープと、カリフォルニアにある子会社のセキュリティ・パスィフィック・ナショナル・バンクを手に入れた。
他にも、アリゾナ州、アイダホ州、オレゴン州やワシントン州といったセキュリティ・パスィフィックが1980年代後半に手に入れた他の銀行も手に入れた。
これは歴史上最も大きな銀行取り引きであった。
しかしながら、シー・ファーストとレニエの連合が、バンク・アメリカにその州の市場のあまりにも大規模なシェアを与えるため、連邦取締人によってセキュリティ・パスィフィックのワシントン子会社レイナー・バンクを売却させられた。
それ以降、バリー・バンク・オブ・ネヴァダを獲得することで、ネヴァダ州にまで経営を拡大させた。
1994年、バンク・アメリカはシー・ファーストの価値を下げた同じ石油ブームの破綻をきっかけに国有化されていたシカゴのコンチネンタル・イリノイ銀行を獲得した。
当時、コンチネンタルを救済できる資金を有する銀行は存在しなかったため、連邦政府が10年近く銀行を運営した。
当時、イリノイでは支店銀行制を禁止していた。そのため、バンク・オブ・アメリカ・イリノイは21世紀まで、単一の銀行であった。
バンク・オブ・アメリカは経営戦略を展開する店舗を設立するため、シカゴにその全国的な金融の部署を移動させた。
後に起こった合併の後でさえ、中西部は他のバンク・オブ・アメリカの支店がないままである。
これらの合併は、バンク・アメリカ株式会社が再び預金高で米国最大の銀行持株会社になるための一助となった。
しかし、1997年、会社は急成長するナショナル・バンクに抜かれ2位に後退。1998年にはノース・カロライナズ・ファースト・ユニオン社に抜かれ3位に転落。
ファースト・ユニオン・ナショナル・バンク・オブ・ノースカロライナに抜かれ、2位に転落した1998年まで、カリフォルニア・バンクは最も大きい銀行であった。(これは、ノースカロライナ単独でファースト・ユニオンの市場占有が理由ではなく、BofAが当時取引していた州ごとに個別の銀行を展開する一方、ノースカロライナへその支店をすべて統合してしまった専門的な理由からである。)
1998年ネーションズ・バンクとバンク・アメリカの合併はその当時、歴史上最大の銀行取り引きであった。
2つの巨大な会社の規模にも関わらず、連邦取締人はニューメキシコの13支店の剥奪のみ主張しただけであった(合併後の新銀行が、ニューメキシコの唯一の銀行となってしまうため)。
その理由は、支店の剥奪は、合併後の新銀行のFDIC預金市場占有率が特定の州で25%以上、あるいは連邦全体で10%以上となった場合のみ行われるためである。
ネーションズ・バンク、バンク・オブ・アメリカによる648億ドルでのバンク・アメリカの獲得に続く。バンク・オブ・アメリカは5700億ドルの総資産および22の州の4,800店の支店を有していた。
2001年、バンク・オブ・アメリカのCEOであり社長でもあるヒュー・マックコールが辞職し、ケネス・ルイスを彼の後継者として指名した。
ルイスの金融訓練および効率性に関するより大きな焦点は、彼の前任者の合併および獲得戦略の発展性とより顕著に対照的である。
2004年、バンク・オブ・アメリカは最大のFDICにアメリカの預金市場占有率は5130億ドルと評価されたため、バンク・オブ・アメリカの立場を固めるために、マサチューセッツ州ボストン市を拠点としたフリート・ボストンを470億ドルで買収した。
2番目に3530億ドルを保有しているJ.P.モーガン・チェイス=バンク・ワン、第3番目の2280億ドルを保有するウェルズ・ファーゴと比べて遥かに抜きん出ている。(2003年6月30日時点)
統合したバンク・オブ・アメリカおよびフリートは、29の州で3500万人の顧客を抱える5,700の支店を持つ。
フリート・ボストン・ファイナンシャルとの合併の後、市中銀行や貯蓄やローンの預金の毎10ドルごとのおよそ1の割合でバンク・オブ・アメリカの預金であった。
バンク・オブ・アメリカ株式会社やバンク・オブ・アメリカは預金シェアの点において2番目のライバル会社にかなりの差があるかもしれないが、他の金融サービス会社は財産の基礎、利益、市場投資の点で遥かに上回る。
(以上 ウィキペディア 抜粋編集)
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