・原発作業員たちの「砦」
2011.4.4 21:58
3軒の民家が原発作業員たちの「砦(とりで)」だった。東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発から約60キロ離れた福島県郡山市郊外の住宅地。各地の原発で保守の仕事を請け負う双葉町の建設会社社長、松本喜成さん(35)は震災後、この地で業務を再開した。
「F1とF2がこういう状況になり、うちの社員も100人が仕事を失った」
会社は震災前、社員150人のうち100人が「F1」「F2」と呼ばれる福島第1、第2で働き、30人が新潟県の柏崎刈羽で就業していた。残りは福井県の敦賀、静岡県の浜岡、さらに青森県で建設中の大間と各地の原発で働いている。
震災で福島の100人は県内外の避難所や関東・東海地方の親戚宅へ散り散りになった。3週間が過ぎ、社員の不安が増してきた。
「働きたいのに仕事がない社員もいるし、原発ではもう働きたくないという人もいる。女房子供のため原発の仕事を希望する社員がいれば、奥さんにもうやめてと止められた人もいる」
親戚宅へいつまでも居づらいと打ち明ける若手社員たちを郡山へ呼んで民家に住まわせた。家主が「こんなときだから」と空き家3軒を無償で貸してくれた。松本さん一家と社員を合わせ10人。飼い犬もいる。
訪ねた夜、畳の居間では男たちがこたつを囲み、社員の一人が作ったカツカレーをほおばっていた。数人が福島第1の復旧作業へ加わっている。日当は1万3千円から2万円で、震災前と同額という。松本さんは「日当40万円とか100万円とかいうのはデマだと思う」と話した。
「第3のビール」の350ミリリットル缶を傾けながら、テレビを見つめ、ときには冗談を交わす彼ら地方の「原発職人」たちが、わが国の経済を、大都市住民の暮らしを支えている。こんな状況になるまで考えたことがなかった。当たり前のように電気を使っていた。
松本さんは新しい事務所を探しているという。
「いつまでも大家さんの世話になれない。いずれ廃炉ということになれば、自分たちがやることになる。長期戦は覚悟している」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110404/dst11040421580049-n1.htm
・原子力安全委員 最短週10分の会議出席で年収1650万円.
2011年04月04日07時00分
提供:NEWSポストセブン
原発事故で刻々と状況が悪化する中でお目付役である原子力安全委員会は何をしていたのか。震災発生翌日(3月12日)の朝、菅首相の原発視察に同行した班目春樹・原子力安全委員会委員長。
同委員会は原子力の安全確保のために内閣府に設けられた「原発の監視役」で、事故が起きれば専門家としての知見を国民に示す立場にある。
が、班目氏が初めて会見したのは23日の夜。28日の会見では、建屋に溜まった高放射線量の汚染水処理について、「知識を持ち合わせていないので、東電と原子力安全・保安院にしっかりと指導をしていただきたい」と答えて周囲を唖然とさせた。
同委員会は委員長以下、委員5人はいずれも常勤の特別職公務員。ただし、常勤といっても定例会議は週1回だけ。議事録を確認する限り、会合は最短で10分弱、長いもので1時間半だった。これで約1650万円の年収(月給93万6000円とボーナス)を貪っている。
なお、内閣府には原子力関係予算の配分を審議する「原子力委員会」もあるが、こちらの委員(常勤3人)も同額だ。だが、事故発生後の会議はすべて休会となっている。今、働かなくていつ働くのか。
※週刊ポスト2011年4月15日号
http://news.livedoor.com/article/detail/5463771/
前から不思議ではあった。この国では、例えば市場原理主義を標榜する人たちは、その社会の安定性を支えている数値に出ない部分の役割をほとんど評価せず、どころか不当に無視する。
たとえば専業主婦がいることで家庭や地域が安定し、結果国家コンセンサスの形成に余計なコストを使う必要が無くなっていることを評価せず、その反面、(潜在的労働力としての)家庭にある女性の存在価値が経済効果としての数値に現れていないことだけをとって労働力の国家損失だと評価する。
あるいは治安の安全性や統治システムの安定性、社会インフラの維持という部分の価値やそれに必要なコストを勘案せずに、国家競争力を語ろうとする。
代表的なのがアゴラの自称経済学者の池田信夫などだが、僕は彼のような物事を俯瞰し得ない弱い知性を評価しない!彼らが経済学的に正しいと主張するような議論は、実際枝葉末節に過ぎない。
それは彼らの知性があまりにも矮小浅薄で、数値に現れ得ない物、もしくは数値として評価しがたい物の価値を評価できるだけの水準に達していないからだが、ゆえに彼らがいかに精密に見せかけた理論体系を提示しようとも、それは宗教における神学と同じで要素選択と評価価値基準という前提が誤っているがゆえに結論も決して正しいものになりえない類の、まあ虚学でしかないと判断して誤りはない。
それはたとえるなら人体をバラバラの部品にして観ることで、人体構造は一応理解できるのだが、いざそれらが連結されたときの相互関係や全体の恒常性に関しての理解には殆ど役立たないことに似ている。
しかし経済学者は自然科学的な物の見方をする訓練をされていないので、しばしば両者を同じものだと錯覚して、間違った前提で物事を観察している自覚ないまま大胆にも愚かな提言をする。
つまり知性が弱いのである。
(まあ経験から言えば、たるんだ顔つきのバカ面のくせに偉そうに言う奴はほぼ使えない。使えるのは引き締まった顔つきで謙った物言いをできるだけの、内面に自信を持ち合わせた連中であることがほとんどである。池田は不細工だから、本当はもっと物言いを謹んで恐れながらと、謙った提言をすればいいのだ。)
まあそれはいい。
結局、物事の総体評価というものは難しいもので、私たちはしばしば泥に覆われた金塊と、金メッキされた鉛を取り違えて評価する。
だいたいそういう錯覚が起きる理由というのは、世間がそう評価しているからというものが多い。
つまり多くの民衆は自身で真偽を確かめ思考する訓練をされていないので、他の多くの人の態度から物事の価値を評価することを思慮もないまま常としているのである。
しかしてそういう依存の構図の中に核となるべき揺るぎない真実の根拠があるかといえばそれもない。
結局、みんな全員訳もわからず相互依存して、その依存構造そのものに仮初の安堵を得ているだけのことなのである。
それでである。
私たちの社会では真に必要性がありかつ危険でもある仕事にこそ、それ相応の高いコストの支払いが必要だという原則が不当に無視されている。
どころか、遊びながらでもできる程度の、つまりなくても困らない仕事に、逆に高いコストを支払っているという現状さえある。
社会全体がそのことに根本的疑義を提示しないまま、だから全員何となくそれが当たり前のような気になっている。
また知識人と称する小利口な馬鹿共もまた、そのような評価価値基準の歪みこそが社会の不正の根源なのであるということをほとんど指摘さえしない。
(役立たず共!)
しかしそのような評価価値基準の歪みは、結局巡り巡っていろいろな部分で社会そのものを大きく歪ませ、最終的には国家の統治システムさえ破壊するに至る。
たとえば、原発の作業員と原子力安全委員会の評議員への報酬の、理解しがたいまでの格差。
どう考えても前者は必要不可欠でしかも危険性が高い仕事なのであるから、社会がこれに対する高いコスト支払いを受忍するのは当然であると思われる。
(個人的心情としては週給で70万ぐらいはあげたい。)
対して後者は存在意義自体がよくわからないし、なおかつ彼らへの高額報酬に見合う価値がどこにも見いだせないので、大いに困惑させられてしまう。
(たぶん、時給一万円でいいのは、こっちの原子力安全委員会の連中だろう。あと民主党議員は全く働きがないので時給500円ぐらいが妥当である。迷惑かけるだけの存在でしかない小沢とか鳩山は逆にこっちに金払え!)
もっとも優秀な知能の人材には高い報酬が提示されなければ集まってもらえないという事情はあるのだろう。
しかし社会にノブレス・オブリージュ(名誉ある高い地位にありたいと想うなら、自らが最も強く義務を果たさねばならない。高潔な人格は自己犠牲でそれを証明せねばならない。)の考えが強く根づいているならば、これもまた問題とはならない。
(市場原理主義というドグマは、人間社会から自己犠牲という概念を排除する。つまり自分の利益にならないことには一切の価値を認めないという思考論理がその根底にあるためである。
結果、そこで最終的に実現されるのは万人の万人に対する相互侵奪状態、あるいは相互殲滅に至る飽くなき闘争なのであり、その途中でその邪魔になる人倫的価値観は当然のように社会から消滅している。
いわゆる滅びに至る道という奴なのだが、やはりそういう事を主張しているのは弱い知性の馬鹿なのでこのことが理解出来ていない。故にそういう連中の口車に乗ると社会は根底で崩壊する。)
まあいずれにせよ、この文明における問題の多くは評価価値基準の歪みにある。それは例えば選挙における投票価値の格差みたいなものであるが、実際のところそんなものよりはるかに大きな歪みはいくつも放置されている。
そういう根本的な歪に対して誰しもが気づかぬふり見て見ぬふりをして、そんなものはまるで存在していないかのようにスルーし続けて来た。
結果、歪は気づかぬうちにどんどん大きくなり、誰しもの眼にも見える状態になったときには、もうお手上げ状態になってしまっている。
(それまではみんな物事がうまく成功していると大いに錯覚しているものでもある。)
私たちはおそらく、社会に何か深刻な問題が生じたとき、私達自身の物事の評価価値基準に根本的に重大な誤りがあった可能性にこそ深く想い至るべきなのであろう。
しかしそのことに思い至れる程度の知性を育むには、戦後日本の教育はあまりにもお粗末すぎた。
知識のある小利口な馬鹿は増えたが、合理的懐疑能力と思考力に欠けた、哲学なき表層的な学問しか生み出しえなかったのである。
それは池田信夫のような戦後教育の産物たる、透徹した哲学なき小利口な馬鹿どもを見ていれば一番良くわかる。
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