2011年4月6日水曜日

石工たちの蹉跌、あるいは核分裂の炎とオフルの黄金

・海外分析 政府発表より緻密
2011.4.4 06:52

いまだに危機的状況から抜け出せないでいる東日本大震災に伴う東京電力福島第1原子力発電所事故。国民は政府や東電の発表、説明を注視しているが、今一つ実態や危機の程度が分からず、もどかしい思いをしている。

一方、今回の事故には欧米を中心に海外の専門家、メディアも注目しており、その分析は日本より踏み込んだものが多い。鮮明な事故現場の写真が世界中に配信され、その画像を元に、原発先進国の研究機関が独自に開発したシステムを活用して事故の状況をコンピューターでシミュレート(模擬実験)し、積極的に情報開示しているためだ。

ノーベル物理学賞を受賞した原子物理学者でもある米エネルギー省のスティーブン・チュー長官(63)は1日、米紙ニューヨーク・タイムズのインタビューに答え、「詳密なモデリング(仮説実験)の結果、(福島第1原発の)ひとつの原子炉(圧力容器)は70%損傷しており、別の原子炉の核燃料棒は33%が溶融していることが分かった」と言い切った。
(SANKEI EXPRESS)

日本の経済産業省原子力安全・保安院のこれまでの発表では、「3号機の圧力容器が一部で破損しているとみられる」「1、3号機の核燃料棒は、一部溶融している可能性がある」としていたのと比べると、チュー長官の発言は具体的に数字が示され、分析の深さがうかがえる。

米国、フランスの2大原発先進国では、1979年の米スリーマイルアイランド原発事故(大規模な炉心溶融)と86年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故(原子炉爆発)を経て、事故時にわずかな映像や断片的情報から原子炉で起きていることを探るためのシミュレーションシステムを開発してきた。マサチューセッツ工科大(MIT)のマイケル・ゴレイ教授(原子力工学)は「システムの精度は近年格段に上がっている。しかも今回は精度の高い写真が多数撮影されているので、かなり詳しく実態が把握できているはずだ。情報を開示するかどうかは別の話だが」とニューヨーク・タイムズに語っている。

米スタンフォード大学は3月21日、今回の福島第1原発事故と原子力発電の将来について考えるパネルディスカッションを開いたが、席上、フランスの世界最大の原子力産業複合企業アレヴァの関連企業のアラン・ハンセン副社長は「(福島原発で)一部溶融した核燃料棒の温度は、最高時には摂氏2700度に達していた」と発言した。これは専門家が聞けば、愕然とする内容だった。

燃料棒は核燃料を焼き固めたペレットをジルコニウム合金で棒状に覆っている。ジルコニウム合金は約1100度で溶け出し、燃料本体が原子炉圧力容器の底に落ちた場合、圧力容器の鋼鉄の耐熱温度は2800度とされているためだ。さらに過熱され圧力容器の底を破って格納容器の中に燃料が入り込めば、原子炉建屋が崩壊している現状下では大規模な炉心溶融を起こしたスリーマイルアイランド原発事故を上回る事故となるところだった。

事故の当事国では、核心情報の持つ重み、国民への影響力が第3国とは格段に異なる。とはいえ、政府は「隠す」「うそ」「過小評価」だけは現に戒めなくてはならない。

チュー長官は「時間はまだかかるが、方向は確実に収束に向かっている」とも言った。この言葉を信じたい。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110404/dst11040406590003-n1.htm















米エネルギー省のスティーブン・チュー長官の指摘するところは、測定機器が万全に機能していない現状でおそらくもっとも信頼に値する正確な分析なのだろうと想う。

「詳密なモデリング(仮説実験)の結果、(福島第1原発の)ひとつの原子炉(圧力容器)は70%損傷しており、別の原子炉の核燃料棒は33%が溶融していることが分かった」

幸いというか、格納容器がなんとか機能維持できており、なおかつ7割がた損傷していると推測される圧力容器と33%溶融している燃料棒の組み合わせという話ではなく、あくまでそれらは別々の原子炉の話である。

全く安心出来る状態ではないが、少なくとも爆発による放射性物質大量拡散という最悪の事態を想定しておけねばならなかった危機の第一段階は終息しつつあり、これからは困難かつ未知の作業である原子炉解体という、長く苦しい第二段階のプロセスが始まることになる。

(どれくらいの時間と金と手間がかかるのか、それがどの程度日本という国家の形に影響をあたえるのか。
あるいは今回の出来事がどういう形で日本人の精神性、その無意識な方向性をも左右することになるのか?

朧気な印象では、原爆に続いて世界で初めてのこの種の技術文明論的危機に対処するという稀な経験を経たことで、今後この世界に起きうるさらに大きな技術文明論的危機に対する最初の備えを物心両面に渉って整えることができた気がする。

つまり私たちは技術が心を含めた人間の形さえ変容させてしまうことの根本的意味を実感として経験したことによって、今後は他の国家群に比べより客観的大局的に技術のもたらす危機に備える事ができる、つまり他の民に先駆けて技術革新に対応しうる最初の人類史的な精神変容を遂げることができたのだと言える。

これは人間性や、久しくこの文明における冷徹な支配者であり続けた経済原理さえも、最終的には跡形もなく飲み尽くすほど際限なく強大化することを宿命付けられている技術革新なるものに対する、人間側からの唯一にして最初の突破口を開くことにもなっていくはずだ。

それが意味することは、他の連中が新しい文明の支配原理である技術革新に支配されても、なお私たちだけはそれを支配し返す事が可能になるということでもある。

これは選ばれた民となるべき最初の資格でもある。黄金は石塊のうちより選ばれ精錬されねば黄金足りえない。

そしてこのことは来るべき技術的臨界点(特異点)を迎える時点でこそもっとも大きな意味を持ってくる。

今回のことで、この国にも風評のみで取り乱す馬鹿が大勢いた一方、取り乱すことなく淡々と技術のもたらす文明論的危機を見据えていた人々がなお大勢いた事をとても嬉しく思っている。
それは僕の中の想定を裏付けてくれる出来事でもあった。

未来は、際限なく進む技術革新に人たる叡智を持って抗するべく、最初の精神変容を遂げつつある彼らにためにこそある。

ところでジンバブエという「石の家」という意味の名を持つ国がある。

実は石工職人の末裔を自称する者たちはここにこそオフルの黄金=精神を変容させるためのソロモンの秘鍵があるという秘教的な解釈をしていた。

でも僕は最初からオフルの黄金は最初に地上で灯された原子の炎が精錬した日本人こそがそれなのであり、すでに変容そのものはその時点からゆっくりと始まっていたはずなのだと考えていた。

「わたしは人を精金よりも、オフルのこがねよりも少なくする。」イザヤ書

「なんぢもし全能者(ぜんのうしゃ)に歸向(たちかへ)り且(かつ)なんぢの家より惡を除(のぞ)き去(さら)ば 汝の身再び興(おこ)されん
なんぢの寳(たから)を土の上に置き オフルの黄金(こがね)を谿河(たにがは)の石の中に置け
然(さす)れば全能者(ぜんのうしゃ)なんぢの寳(たから)となり 汝のために白銀(しろがね)となりたまふべし 」ヨブ記


日本人こそは技術のもたらす危機に叡智もて打ち勝ち却って自らを精錬し地上に残るべき真実のオフルの黄金。死すべきはただ川底の石塊ども。)



その一方で、日本の原子力発電企業である日立や東芝と競合関係にあるフランス企業アレヴァの関連企業のアラン・ハンセン副社長の発言は、競合他社に対する自社の優位を誇示せんがための根拠なき眉唾と考えておくほうが賢明であろう。

(フランス人というものは昔から戦場では間抜けで意気地なしの代表みたいな連中だが、平時にはどこまでも嫌らしく姑息な策謀を平然と張り巡らせて一向に恥じ入ることがない連中だった。
まるでスラブ人ども特有の歪みきった精神性の原型にもなった伝説の獣の姿を観るようで寒気さえする。
本当にカソリック(毛剃苦)の毛深い長女はとことんあさましくどこまでも醜く卑しい性根の奴らだ。

たぶんフランスの辞書に不可能の文字がないというのは嘘で、実は奴らには正直という言葉が存在していないだけなのである。

だいたいあいつら生まれた時から腐ったチーズ塗りたくったようなワキガ臭のしているクズ人種共ごときを信じるくらいなら、台湾のお告げ小鳥の託宣を信じるほうがまだましである。)


「(福島原発で)一部溶融した核燃料棒の温度は、最高時には摂氏2700度に達していた」

あるいはそういう可能性があるとして、このお腐乱すコキュ野郎がどういう状況推測、推定根拠で、なおかつどういう科学的見識を自身がもって語っているのか、全く意味不明だ。

(私企業の関係役員の発言など、ましてやフランスのかたつむり食い雄鶏野郎ごときの言葉など信じるに値するか!

なんどでも言う。

フランス人は犬の糞から生まれてきたような連中だ!欧州におけるドラえもんのスネ夫的国家であると言い切ってもいい!
フランス人と中国人は誇大に話を膨らませる嘘をエスプリだとさえ思っているに違いない。
奴隷でしかないロシア人を除けば、フランス人とオランダ人だけは断じて信用ならない。)


というわけで、今回の福島原発事故の総括は、民主党とフランス人は糞ということになるであろうか?






あとおまけ。





・指揮官が1人必要…東日本大震災対処でNY市長

 【ニューヨーク=吉形祐司】2001年の米同時テロの際、ニューヨークで陣頭指揮を執ったルドルフ・ジュリアーニ前市長(66)は1日、読売新聞と会見し、東日本大震災への対処について、「指揮官が1人必要だ。すべての指令はその人が出し、情報も1か所に集まるべきだ」と述べ、国家的危機を乗り切る強力な指導力が重要だとの考えを強調した。

 指揮官については、「首相でもいいが、首相が任命してもいい。有能な人材をすぐ集められる官僚機構から選ぶべきだ」と指摘。その上で、「私なら、『被災者対応』と『(放射能汚染などの)被害拡大防止』を担う二つの指揮系統を作る」と語った。

 ジュリアーニ氏はまた、「被災を通じ、日本人は、より素晴らしく、強くなると信じている」と、被災地復興への期待を表明した。

(2011年4月3日00時49分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110402-OYT1T00814.htm?from=main3




ひょっとしたら気のせいかも知れないが、どうやら自身が有能なリーダーとして国難に対処した経験もあるこのイタリア系米国人は、日本には指導者がいないと暗に我らが菅直人総理お大臣以下、民主党超絶無能馬鹿議員の皆さんを皮肉っているように聞こえる。

というか「民主党なんか指導者に選んだ、お前ら、すげぇバ~カ!」とフニャチンイタリア人ごときにおもいっきり馬鹿にされているような気がする。


「断じてそんなことはない!」と言いたい所だが、こっちはこっちで、あまりといえばあまりなまでに存在意義不明機能不全ほぼ完全脳死状態にある無能左翼売国政権の実際を目の前にしているので、苦々しくも深く頷くしかない。

(一応念の為に行っておくと、僕は2009年衆議院選挙に際して麻生太郎演説会に赴き拍手していたぐらいなので、民主党には投票していない!

だからいまなお堂々とイタリア人および合衆国国民に向かって「どう考えてもお前らのほうがバ~カ!」ときっぱり言い返すことができる。

そんな僕をヨダレ流してうらやましがれ、民主党を支持した稀代の愚民ども。

被災の二次被害拡大の真の原因を作ったお前らは後世によって永遠に罵られ嘲られ続けられることであろう。)

でもまあ、そんなテレビ映りと票とお金以外何も頭の中にない民主党の無能力禁治産的ウジ虫集団を政権与党に選んだのも国民の民意だそうであるから、これも自ら進んで選んだ天罰と潔く諦めよう。

自身の身を持って現実の痛みを味わうしかなかったという意味で、実に熱く高価なお灸ではあったと思う。
本当に死ぬほど痛くて死んでしまった人が三万人。

それ見て死ぬこと怖さに震え上がっているのがざっとその千倍くらい。


これがギャグなら、民主党とその支持者諸君は毛沢東やスターリン、ポル・ポトにも並ぶ歴史に残る超絶ドSなスラップスティックコメディアンだといえよう。

(本当どこまでも立派な人達だ。左翼って見ているだけでなんだか反吐が出そう。)


で、「天罰」といえば例の現職東京都知事発言であるが、なんか言葉尻つつかれて統一地方選の政治的駆け引きの材料にもされているようで、たしか別のことでも話題になっていた。






・【東日本大震災】石原知事“花見禁止令” 戦争時の「連帯感は美しい」
2011.3.30 20:00


 東京にも桜の季節がやってきた。例年、花見で盛り上がるところだが、石原慎太郎都知事(78)が「待った」をかけた。東日本大震災の被災者、節電への配慮から、今春は自粛すべきというのだ。(夕刊フジ)

 「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない」

 死者・不明者だけで2万7000人を超えた大震災。29日の会見で石原氏は、太平洋戦争を引き合いに「同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感ができてくる」「戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」と、都民に対し、事実上の“花見禁止令”を通達した。

 上野恩賜公園では、すでに「うえの桜まつり」の中止を発表。園内の至るところに宴会の自粛を呼び掛ける看板を設置。恒例のぼんぼりは点灯せず、ごみ置き場や仮設トイレもない。

 上野恩賜公園管理所の渡辺裕チーフは「来園者の反応は、『こういう時だからこそ、盛り上がりたかった』という声と、自粛は当然という意見の半々。例年は朝から場所取りで大にぎわいですが、今朝(30日)は1組だけでした」と話す。

 上野公園をはじめとする都立公園では、飲食を伴う花見自体は禁止しないが、アルコールが入り、過度に盛り上がっている団体には、ガードマンが自粛協力をお願いするという。千鳥ヶ淵緑道のライトアップや、国立劇場や靖国神社などのお花見イベントも中止が決まっている。

http://www.sankeibiz.jp/macro/news/110330/mca1103302006015-n1.htm




・蓮舫氏:石原知事「花見自粛」に反論

 蓮舫・節電啓発担当相は1日の記者会見で、東京都の石原慎太郎知事が東日本大震災を受けて花見の自粛を呼び掛けたことに対し「都知事が何とおっしゃったか分からないが、権力によって自由な行動、社会活動を制限するのは最低限にとどめるべきだ」と指摘した。蓮舫氏は石原氏が求めている深夜のコンビニ営業自粛や自動販売機の夜間消灯についても「夜間は電力が余っている。治安的にも意味がある」と否定的な見解を示した。

 石原氏は3月29日の会見で「同胞の痛みを分かち合うことで連帯感ができてくる」と花見の自粛を呼びかけた。【青木純】

http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110402k0000m010119000c.html






昔から「国破れて山河あり」という。「桜の樹の下には人の亡骸が埋まっている」云々と書いた知識人もいた。

想うのだが、悲劇の存在は美しいものや艶やかなものをより一層偉大に感じさせるものだ。
他人の死は自らの生の意味をこよなく美化し輝かせる。

「君たちは死んでしまった。でも僕は生きている。それにしてもどうだい、この桜の美しさ、このビールの旨さは?」

まあ普通はそういう事はふと感じても決して言葉にすることはしない。

すれば偽善に染まった世間からは人格を非難されるだけではなく正気さえ疑われる。だから言わないが、しかしそういう感覚は現実にある。

良くも悪くも、他人の死を見ても決して我が死を想うことがないからこそ、死を見てより一層我が生の悦びを強く感受するからこそ、人はなんとか苦しいこの世界を生き続けていけるものなのだということもある。

そういうわけで廃墟の中で観る桜、これは誰がなんと言おうと文句なしに美しい。死体の横で一人生き延びやっとのどを潤せた時のワインは生きている実感そのものを思わせるほどに美味しい。

というより対比があまりに強烈なのである種の感受性が並外れて強い人間にとっては美しく感じられ過ぎる。

そう、生きているのが申し訳なくなるぐらいに、生き続けるのが怖いぐらいに、それでも生きるしかないのならいっそ狂わずにはいられないほどに。

だから場合によっては、そのことで自身の精神の安定そのものが壊れ、人はいきなりな狂気にさえ誘われ、あっちに行ったきり二度と戻ってこれなくなるということも起きる。

たぶん此岸と彼岸を分け隔てるものは、感受性に支配され切ってしまうことを断じて許さない、どこまでも自分を統御できる鉄の精神ひとつがあるか否かだけなのだろう。


でもそれ以前の段階にある人々、つまり凡庸な感受性しか持たない、いや凡庸以下、昆虫並の感受性しか持たない人間、そう例えば左翼や市場原理主義者のようなドグマティックな毒に侵されたような心を失った連中にとっては、そういう感性はおそらくどこまでも理解しがたいものなのだ。

ここには、人間というものがたとえ姿形こそ同じであっても、その精神性においてはなお歴然と、真の美しさを理解できる資質を持つ優等種と、それがかなわない劣等種の二種類のあることを思わせる。

無論、元が卑しい支那人出自の蓮舫や、歴史的に系統選抜された愚民遺伝子を持つ朝鮮人並の人格しか持ち合わせぬ人間ウジ虫の民主党議員如きが後者であることは疑いない。

あれはもともと豚に近いような中身しか持っていない劣等種なのだから桜の美しさなど理解できようはずもない。
それは仕方ないことである。
もともと奴らはゴミクズに涌くウジ虫程度の価値しかない生き物なのだ。
かわいそうだが、特に同情すべきことでもない。
ただそういうものに生まれてきたというだけのことでしかない。


しかしそれはさておく。

いずれにせよ、それは石原慎太郎や三島由紀夫のように、ある種の感受性が鋭敏すぎる選ばれた人間(しかし自身の感受性に陶酔してしまいがちなほどに、いまだ完全には鍛えあげられていない程度には未熟な精神性の人間)のみが胸の内で思っておけば良いだけの話であり、そうでない普通の人間にとっては、やはり桜は「ハレ」の象徴であり、気分を躁状態にしてくれる、その意味では酒や風呂と同じ効能があるものである。

なれば気分が沈んでいるこのような時だからこそ、自分の心の憂さを如何ともしがたい思いでこらえるばかりで、一向に為す術もない民草においては、あえて桜でも観、酒も飲み、風呂にも浸かり、心の穢(け)を祓い、努めて前向きな気分になれるようにするのが良い。

思うに、災害で死んでいった者たちも、冥土への道程を陰気臭い涙で送られるよりは朗らかな満開の桜にも似た浮世の馬鹿どもの笑顔で送られる方が嬉しいに違いあるまい。

だから石原や三島由紀夫の如き卓越した感受性の人間は自身のみ自粛していれば良い。

それも士たる生き様を選んだ人間における一つの共感の示し方であり、実に立派なことではあるにせよ、しかしそのことはどこまでも同じ士だけにしか理解できないことであるし、選ばれた人間のみ分かっていればいいことなのだ。

しかし大多数のそうではない凡愚の民草には、何も考えず思う存分花見の祝いをしてやることが、人々の心深く澱積もった憂さを祓い清める真の供養にもなると、そう教えることこそが、選ばれた指導者的人種にあるべき民草への配慮というものであろう。

だから他人に向かってそうせよと上にある者が言葉で言うのは愚かなことである。士はただ自らの無言の行いのうちでのみそれを示しきれば良いのである。

心ある民はその姿勢に感銘を受け自らも倣い、しかし多くの盲者の群れはその真意を後々迄理解できない。
しかし世の中とは得てしてそういうものでしかないのだ。

僕はそう考えるが、石原慎太郎、汝如何?






そこで一首。


「憂いをば埋めて開いて待つて修める花見かな」




・上野公園 静かな花見に
2011.4.3 20:30


上野公園の園内には、東日本大震災のため「うえの桜まつり」の中止の告知と、宴会の自粛を呼びかける看板が掲げられていた=3日午前、東京・上野公園(古厩正樹撮影)
 東京都台東区の上野公園で3日、前日までの陽気でソメイヨシノが5分咲きになり、花見客が集まった。

 この日の東京の最高気温は9・9度と2月中旬並み。震災による電力不足で今年は夜間のライトアップは中止と、自粛ムードの漂う花見となった。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110403/trd11040320390015-n1.htm



かつて屍累々していた場所で人は桜を愛で旨し酒を飲み俗世の憂さを忘れ生の営みを続けていく。
今回の悲劇も、やがてそういう景色の中に埋没していく運命なのだ。

そのことははっきりしている。そうなるのが遅いか早いかだけの差で、すべての悲劇は日常の中でただの記述に変わっていく。実に無常だが、しかし実にたくましい生命の力、それのあることにはいつも新鮮な驚きを感じる。

(それを完全に止めきるほどのオーバーキルをどうやって技術が実現するのかということを昔からいろいろ考えていたのだが、どうもそれは不可能のようだ。
唯一可能のようだったのが、生命存在を情報に置換する、滅ぼすのではなく別のものに変容させるというものだった。
これは技術的特異点から先の話になる。

しかし日本人が真にオフルの黄金足りえるなら、途中で石工共がヘタに足を引っ張りさえしなければ、それを含めてすべての技術文明論的シナリオを超克できるだろう。

実際、すでに特撮ドラマ「キューティーハニーTHE LIVE」において、技術的特異点以降に人間が技術を超克していくためのシナリオがあますことなくきちんと示唆されている。
新世代の道程を指し示す神話は、もう無意識の側から日本人に対してだけは黙示されているのだ。
やがて足元から飛び立つ鳥に驚くのはそのことに気づいていない鈍感な連中だけである。)

参考:

http://www.nicovideo.jp/watch/nm12790287

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