2011年4月14日木曜日

仕組まれたトリックスター 出口王仁三郎

・知られざる名著        
『学理的厳正批判大本教の解剖』

オウム事件は第四次大本事件か?
麻原彰晃と出口王仁三郎

破壊活動防止法適用審査や法廷での麻原氏の言動などで一九九七年二月現在、いまだ注目を集めるオウム真理教事件だが、もしもその解散請求が通っていたならば、それは、史上初の破壊活動防止法団体適用であるとともに戦後初の国権による宗教団体解散処分となるはずであった。

私はここに戦前の二度にわたる大本教弾圧を連想せずにはいられない。

大本教といえば高橋和巳『邪宗門』(一九六七)の「ひのもと救霊会」のモデルになったことで有名だが、その弾圧は二度ともある意味で前例のない事件だった。
実は第一次大本事件(一九二二)は不敬罪で、第二次大本事件(一九三五)は治安維持法で宗教団体が起訴された最初の事例だったのである。

大本教主の出口王仁三郎は第一次大本事件では大正天皇大葬による大赦で結局は免訴され、第二次大本事件では不敬罪で懲役五年、治安維持法では無罪という判決を得て刑に服した。

さて、一九九五年五月、オウム真理教教祖・麻原彰晃氏の逮捕とほぼ時を同じくしてオウム出版から出た『亡国日本の悲しみ』には、麻原氏が自らを出口王仁三郎に擬した記述がある。

「大本教団の出口王仁三郎、彼は第二次世界大戦の日本の敗北と大きなかかわり合いを持つ偉大な予言者である。

彼に対する国家の弾圧と、そして第二次世界大戦の敗北の経緯を見てみよう。
(以下、第二次大本事件の大要と二・二六事件から日本の敗戦までの過程を語る)

大本大弾圧を境に、日本という国は焼け跡しか残さない悲惨な運命に投げ込まれていったのだ。そして、予言者出口王仁三郎が投獄されていた二四三五日と全く同じ期間、日本は連合国の占領下に置かれたのである。
なしたことは自分に返る、とカルマの法則は冷厳に宣告する。
聖者を迫害した国家の運命は、このように悲惨なものとなることが定められているのだ。
(中略)
これからもわかるとおり、予言者を弾圧した場合、このような激しい国家的な災難に遭わなければならないのである。そして今存在しているオウム真理教は、それよりも精神的ステージの高い者がそろっている。しかも出家し、ボーディチッタを、つまり性エネルギーを保全している者たちである。
この弟子たちに対する国家の弾圧は、果たして、これから迎えるであろうハルマゲドンにおいて、日本をどのような方向に導くのか、わたしはそれを考えると非常に悲しく、そして哀しみの心が出てくるのである」
(『亡国日本の悲しみ』一九三~一九七頁)

このオウム糾弾と戦前の大本教弾圧を同一視するオウム側の見解には当然のことながら批判もある。

たとえば、司馬遼太郎氏は立花隆氏によるインタビューの中で大本とオウムを対比し、「両者は似ているところがなくもない」としながら、「麻原と出口王仁三郎はまるで違います。出口王仁三郎という人は芸術がわかった」として両者の峻別を図っている。

そして、立花氏が「大本教が弾圧された時代は、大本教の方に非があるのではなく逆に弾圧した国家の方に問題があった。考えてみれば戦争中の日本はオウム的な面が多分にあったといえるんじゃないですか」と述べたのを受ける形で「たしかに戦前の日本はオウムみたいなもんですね。見ようによると、大本教の方が国際的で平和主義で、まっとうなところがありました」と論を進めていくのである。
(「司馬遼太郎「オウム真理教と日本軍」」『週間文春』一九九五年八月三一号)

いずれにしろ戦前の大本教弾圧はオウム事件との対比において、注目されたということは間違いない。
たしかに宗教と社会との関係という問題について大本教事件は恰好のテストケースの一つとなるからである。

ただし鬼籍に入られた司馬氏には申し訳なき次第だが、彼の見解には若干の事実誤認が含まれていることを指摘しないわけにはいかない。

実は戦前の大本教は決して「国際的で平和主義でまっとう」といいきれるような教団ではなかったからである。

今、私の机上には一冊の書物がある。

中村古峡著『学理的厳正批判大本教の解剖』(一九二〇)、これは第一次大本事件前夜、一般のインテリが大本に対してどのようなイメージを抱いていたかを探る上での貴重な史料である。

中村古峡は本名、中山蓊(しげる)、作家としての筆名を胆駒古峡といい、明治十四年(一八八一)二月二十日、奈良県生駒に生を享けた。
夏目漱石門下として東京帝国大学英文科を卒業、東京朝日新聞に入社するも精神医学への関心押さえがたく明治四三年に退社、東京医専に入学しなおす。昭和三年(一九二八)、医専卒業の後は千葉県千葉市に精神病院を開設した。
その著書は多く、作家としての創作には『殻』『甥』『永遠の良人』、医学関係の書籍としては『変態心理の研究』『二重人格の女』などがある。彼はまたは日本精神医学会の主幹として日本における心理学の確立に大きな役割に果たした人物である。
昭和二七年九月十二日没。

さて、『学理的厳正批判大本教の解剖』の本文の冒頭において、中村は次のように言い放つ。

「およそ世の中に馬鹿ほど恐ろしいものはない、と云ふ俗諺がある。蓋し馬鹿は、概ね独りよがりのお先まっくらで、自制や反省の念は薬にしたくても見当らず、おまけに向う見ずの無鉄砲と来てゐるので、何をしでかすか分らないからでらである。
余は大本教を思ふ毎に、およそ天下に迷信ほど恐ろしいものはないと、つくづく云ひたくなる。
蓋し迷信者は馬鹿と同じく、概ね独断で、無反省で、更に自負誇大の念に強く、ややもすると頑迷不霊に陥り易いので、果して何を云ひ出し、また何をしでかすか、分らないからである」

中村は当初、心理学者の立場から大本教祖の「神懸り状態」に関心を持ち、丹波綾部町(現京都府綾部市)の大本本部で現地調査を行ったが「宗教的内容が、予想以上に浅薄で且無稽なのに失望」した。

しかし、大本教がその後、勢力を伸ばし、社会問題となったばかりか、中村の所にも「大本教は果して宗教として存在するだけの価値あるや否や、其の鎮魂帰神法と催眠術との関係は如何、其のお筆先と予言の真偽とは如何」などという問い合わせが殺到するようになったため、この書物を著してその回答に代えようとしたという。

大本教は当初、綾部の老女・出口なほ(教祖)の「神懸り状態」に端を発したが、教団の基礎を作ったのは教祖の娘婿・王仁三郎であり、さらにそれが急成長するには東京帝国大学英文科卒のインテリ浅野和三郎の入信が契機となっている。

中村はその経緯を踏まえた上で「今日の大本教は、短刀直入にこれを云へば、つまり出口王仁三郎と浅野文学士とが、教祖の『お筆先』を種にして、巧に捏ち上げたものとも云へる」とみなす。

そして、大本教はしょせん「誤つたる一妄想の上に猿とも狐ともえたいの知れない鵺的社会を建設しようとしてゐる一曖昧団」にすぎないと断ずるのである。

中村によると、『お筆先』とは「妄想性痴呆患者の濫書症」の産物であり「私達変態心理の研究者に取つては、いささか興味ある一研究資料」にしても、それを神聖視するのは滑稽な錯誤だとする。

中村はさらに大本教の鎮魂帰神法で導かれる精神状態(神懸り)が催眠状態であること、教祖没後に公表された『お筆先』は教祖直筆ではなく王仁三郎の捏造になること、『お筆先』の予言が的中したと称するのはすべて後からのこじつけであり、実際には多くの予言が外れていることなどを論証しており、そこにはオウム真理教のマインドコントロールや麻原氏による予言の捏造などをも連想させるものがある。

次の一節など、そのままオウムの理系インテリ信者への批判に転用できるのではないか。

「大本教の幹部では、ややもすると其の信者の中には現代の知識階級を網羅してゐると誇称する。
彼等の所謂知識階級とは果して何を指すのだらうか。
曰く某々高官、曰く某々陸海軍将校、曰く某々専門博士、曰く某々実業家-
(中略)
皆夫々の道にかけては、現代の知識階級かも知れない。
然し余等の見る所にして誤なくんば、彼等は精神科学の知識にかけては殆どゼロである、否寧ろマイナスである。精神科学に無知識な門外漢が、単なる暗示に基く人格変換に驚いて、神霊の憑依を主張するのは、丁度余が前述の無教育な子供や田舎者が、蓄音機を見て、喇叭の中に人が潜匿してゐるのを恠むと同様の程度である。
こんな信者はたとへ百万人を集め得たとて、大本教の虚勢にはなるかも知れんが、大本教が迷信でないと云ふ証拠には毫もならないのである」

また、大本の鎮魂帰神法は単なる催眠術ではなく、自己暗示による人格変換であることから「覚醒後屡々思想の惑乱を来し、遂には精神錯乱に陥つて、とんでもない乱暴をしでかすこと」があったという。
中村は鎮魂帰神法が原因になったと思われる殺人事件の実例まであげている。

王仁三郎はまたトリックによる「奇蹟」を演出してもいる。

王仁三郎の元側近の証言によると、王仁三郎は『お筆先』の「煎豆に花が咲く』という予言を実証?するため、人知れず庭の一角にふつうの豆をまき、その同じ場所で信者たちの見ている前、煎豆をまいたことがあるという。
十数日後、そこから生えてきた豆の芽にトリックを知らない信者たちは驚嘆したというわけである。

王仁三郎の言動には麻原氏を髣髴とさせるものがある。

たとえば大正四年、王仁三郎は火の雨が降るという妖言を流布して、多数の信者を綾部に避難させた。
大阪のある老夫婦などは自分の店を売り払ってその金を王仁三郎に献納し、鰹節まで抱えて綾部に逃げ込んだ。
当然、火の雨など降るはずもなく、王仁三郎は「あれは幸い幽界だけですんだ」とやって信者たちに随喜の涙を流させたという。

これは一九九〇年、麻原氏が自ら予言した天変地異を逃れるため、信者たちを連れて石垣島に避難したというのとそっくりである。

また、先述の元側近の証言によると王仁三郎は大の好色家で「大本教に出入してゐる女達は大抵片っぱしから手を掛けて」いたという。
王仁三郎は「天下に私ほど不器量な者はない。それでも世の中の女と云ふものは、一度私が秋波を送ると、みんな吸い付けられて来るから不思議だ」とうそぶいていた。

これもまたワイドショーや週刊誌に賑わわせた麻原氏の性豪ぶりと通じるものがある。
麻原氏も信者の女性たちには魅力に満ちた男性だったらしい。
(実は出口王仁三郎の写真には、ひげのない頃の麻原氏とそっくりなものがある)
麻原彰晃氏と出口王仁三郎は司馬氏が言うほどには異なったキャラクターというわけではないのである。

『学理的厳正批判大本教の解剖』には東洋大学学長の境野黄洋、哲学者の井上哲次郎、インド学の権威・高楠順一郎、社会主義者の堺利彦、河上肇、国粋主義者の三宅雪嶺などが序文を寄せており、また私が持っている刷では付録として哲学者・姉崎正治による同書への書評が転載されている。
彼らはいずれも当時を代表する一流の知識人ばかりである。
彼らが中村を支持したということに当時の知識階級一般が大本教に抱いていた反感がうかがえる。


とはいえ、戦前の日本国家が大本を弾圧したのは、別に予言や奇蹟の類がインチキだからでも王仁三郎が不品行だからでもない。

『お筆先』にある「世の立替」の予言や王仁三郎の大正維新、昭和維新という主張が、時の政府から革命の予告、すなわち政治的野心の表明と受け取られてしまったのである。

第一次大本事件の際、新聞には「内乱予備の陰謀として告発」「命を的に探査の二ケ年毒殺、決闘、斬奸状」」「軍人に深い根を下した大本教」「竹槍十万本の陰謀団」「十人生き埋めの秘密あばかる」など、昨今のオウム報道顔負けの毒々しい見出しが踊った。
(このマスコミの狂騒ぶりは第二次大本事件でも再現された)

また、第二次大本事件の時にはすでに王仁三郎は多くの軍人や頭山満、内田良平ら右翼の大物たちとも交友を持っていた。
昭和維新に備え、大本から北一輝(一九三六年の二・二六事件に連座、銃殺刑に処される)に資金援助があったという風説さえある。

さらに第二次弾圧直前には王仁三郎は自ら主宰する昭和神聖会のメンバー約三千人を集めて軍事演習まがいの示威行動を行った。
王仁三郎は皇居の前で白馬に乗り、サーベルを下げて彼らを閲兵したこともあった。

二・二六事件前夜の不穏な情勢下、疑心暗鬼に脅える政府相手にこれでは、弾圧するなという方が無理だろう。

こうして見ると大本は単なる宗教というよりも一種の政治思想団体として弾圧されたということが明らかである。
だからこそ第二次弾圧に際して国家は不敬罪のみならず本来、ラディカルな政治思想団体を対象とする治安維持法でも起訴したというわけである。

なお、この第二次大本事件を契機として第二次世界大戦の終結まで、日本では国家による宗教統制・弾圧の嵐が吹きあれるが、その際には大本教への治安維持法による起訴が見せしめとしての役割を果たしたことは想像に難くない。

そしてオウム真理教も単なる宗教団体というよりも多分に政治思想団体としての性格を持つ組織であった。
彼らは「真理党」として九〇年の衆議院選挙に出馬、二五人の候補者を立てるも全員落選している。
また、組織運営には国家を模した省庁制を採用、信者の一部で軍事演習まがいの訓練を行い、国家権力掌握後に発布するべき真理国基本律(オウム憲法)の草案まで準備するなど政治的野心に燃えた集団だった。
地下鉄サリン事件はその政権掌握計画の第一歩だったのである。

だからこそ、戦前の治安維持法と同様、本来は政治思想団体を対象としたはずの破防法がオウムに対して適用されることになったのだ。

王仁三郎は大正時代からすでにマスコミ工作の重要性を理解しており、一九二〇年には当時の大新聞社の一つ、大正日々新聞を買収している。

これは第一次大本事件の引き金ともなった。

そして麻原氏もマスコミ操作には巧みな手腕を示し、テレビや大手出版社からの雑誌(学研『ムー』など)を利用して教勢を伸ばしていった。

また、オウムではマスコミに叩かれたり警察と衝突した場合、それを「弾圧」としてマスコミに訴え、大衆の共感を求めるという対マスコミ戦術を多用しているが、これも第一次大本事件をバネとして急成長した戦前の大本教から学んだものかも知れない。

オウムでは地下鉄サリン事件以降も権力やマスコミによる「弾圧」を訴え、教団内部の結束を図ったのだが、その被害者意識の裏付けの一つに戦前の大本教弾圧があったこと、先述した麻原氏の発言からもうかがうことができる。

その他、フリーメーソン(マッソン)による世界征服という妄想や、世界最終戦争への待望なども王仁三郎と麻原氏の共有する思想的特徴である(中村古峡は大本教のフリーメーソン陰謀論について「あまりの馬鹿々々しさに、開いた口がふさがらぬとは此のことである」と評している)。

王仁三郎は一九二四年、モンゴルに入った際、「大本ラマ教」なるものを奉じ、自らダライ=ラマを称していたが、麻原氏はオウム真理教の教義をチベット仏教の用語で説明し、本物のダライ=ラマとの交友を宣伝のため、最大限に利用していた。

こうして見ると、戦前の大本教とオウム真理教とでは教義面でも共通性をあるといえよう。


しかし、麻原氏が王仁三郎のコピーだとして、それが粗悪なコピーであることもまた否定できない。
第一、大本教はオウム真理教のような凶悪犯罪を犯してはいないのである。

弾圧事件当時の新聞は大本についてあることないこと書き立てたが、実際には当局の必死の捜査にも関わらず、内乱予備や凶悪犯罪を証拠立てるようなものは一切発見されなかった。
だからこそ、大本は二度にわたる弾圧にも耐え、再建を果たすことができた。

あるいは王仁三郎が昭和維新を奉じる皇道派の青年将校たちと連動してことを起こせば、大本が何らかの政治的役割を果たすこともありえたかも知れない。
しかし、二・二六事件が勃発した時、王仁三郎はすでに獄中にいて、その事態に対し一切の責任を負うべき立
場ではなかった。
政府が王仁三郎と皇道派との分断を図っていたとすれば、その狙いは一応的中したといえよう。

しかし、弾圧はむしろ結果として、大本教と王仁三郎を日本的ファシズムの成立、ひいては第二次世界大戦の敗戦から免責することになったのである。

戦後、大本教は平和主義だった、あるいは反ファシズム、反天皇制の教団だったために弾圧されたなどという誤解が知識人の間に広まることになるが、その原因はこのあたりに求めることができよう。

詐欺まがいの奇蹟や予言、教団代表者の不品行などはさまざまな新興宗教に見られる現象であり、たとえ発覚したとしても、それだけでは決して教団にとって致命的なものではない。

戦前の大本教のみならずオウムと共通の問題を持つ教団は少なくないが、そのすべてが凶悪犯罪に走るわけではない。
五十歩百歩といえども、その五十歩の差は大きいのだ。

それに現在の大本は政治的にはきわめて穏健な教団であり、戦前のようないかがわしさは払拭されている。
だが、オウム真理教は決して大本のような形では再建することはないだろう。

出口王仁三郎は陸軍、海軍問わず将校クラスの現役軍人を多数シンパとしており、それがまた国家に大本を畏怖させる原因の一つとなっていた。

ところが麻原氏は自衛隊へのオウム浸透を図ったが、ついに尉官、佐官クラスの信者を獲得できず、軍事的には素人の教団幹部が明確な作戦もないままサリンなどを扱わなければならなかった。

かくして地下鉄サリン事件は、その戦術目標が何だったにしろ、無意味に人々を苦しめ、死に追いやるだけに終わってしまったのである。

オウム真理教の施設にはサリンのみならず、その他の犯罪行為をも示す多くの証拠が残されていた。
教団ではそれらの犯罪の責任を逃れるため、姑息な言い逃れを繰り返し、結果としてその恥部をいっそう世間の目にさらすことになった。
この経緯を私たちは決して忘れることはないだろう。

後の世にオウム真理教が論じられる時、それは必ず地下鉄サリン事件をはじめとする凶悪犯罪のおぞましい記憶と共に語られることになるはずである。
それというのも、麻原氏や教団幹部たちの言動があまりにも粗雑にして稚拙だったからなのだ。

オウム真理教とは、戦前の大本教が内包し、そして現在の大本教団が切り捨てたところのいかがわしい面だけを集めて純粋培養したような宗教だったということもできよう。
オウム真理教はある意味では大本教のネガなのである。


さて、ここで興味深い問題がある。『日出る国、災い近し』(オウム出版)によると、麻原氏は繰り返し世界最終戦争はアジアの盟主たる日本とアメリカを中心とする連合国との戦いになると説いていた。
そしてその戦争の後、日本は一時、連合国に占領される(オウムの本当の出番はその後だという)。
また、麻原氏はヒヒイロカネなる神秘金属を用いて、ハルマゲドン後の広島にタイム=スリップしたことがあるとも主張していた。
(『ムー』一九八五年十一月号、『トワイライトゾーン』一九八八年一月号、他)
なぜ、彼は広島に行かなければならなかったのだろうか?

これがたとえば一九二〇年代あたりに出された予言だとすれば、それはまさに的中していたことになるだろう。

第二次世界大戦はまさにアメリカを中心とする連合国と日本との対決の様相を呈し、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下をもって実質上の終焉を迎えたからである。

ここに興味深い分析がある。

清水アリカ氏によると、麻原氏のハルマゲドン予言は世紀末的未来を差し示すものではなく、過去におけるヒロシマ、ナガサキの想起に基づくものであり、その反米思想も来るべき日米戦争などではなく、過去の日米戦争にその根拠を持っているというのである。
(「「サブカルチャー的悪夢」と革命的想像力」『ジ・オウム』太田書店、一九九五、所収)

かつてオウムと同様のハルマゲドン予言は大本教によっても説かれていた。
そして、その予言をなぞるかのように日本は連合国と戦い、廃墟が残された。

王仁三郎は日本の敗戦以降、政治的な発言を止め、陶器作りなどの芸術的活動に専念した。

この沈黙は戦後、大本教団が健全な再建を行うのを助けることになる。

あるいは彼は第二次世界大戦をもって予言の成就とみなし、すでに自分の使命は終わったと心得ていたのかも知れない。

大本教におけるハルマゲドン予言は結果として「予言」といってもおかしくないものになったが、オウムのハルマゲドン予言は過去に起こった事件の未来への投影にすぎない。
ここでもオウムは大本教のグロテスクな模造になってしまっている。

麻原氏と王仁三郎の共通点には偶然のものもあろうが(たとえば女性信者にとっての魅力など)、麻原氏の方でかなり意図的に王仁三郎から学んだとみられるものもある。

その際、重要なテキストとなったのは武田崇元(洋一)著『出口王仁三郎の霊界からの警告』(光文社、一九八三年)であろう。

この書籍は王仁三郎を大予言者として、あるいはカリスマ的政治指導者、霊的革命者として評価するものである。それによると、王仁三郎は大正時代、すでにワープロやファックス、テレビ、リニアモーターカー、クレジットカードなどをも予言していたという。

もっともそれらハイテク関係の予言というのは、実際には武田氏によるこじつけの域を出ていないのだが、おりからの予言ブームで同書もベストセラーとなり、予言者・出口王仁三郎というイメージを一般に流布することになった。

また、武田氏は同書の中で王仁三郎のファシスト的側面をも肯定的にとりあげた。

それは戦後に定着した王仁三郎のイメージ、すなわち平和主義者、反戦主義者という虚像をくつがえすには効果的だったが、結果としてファシズム礼讃となったことは否めない。
もっとも武田氏は以前より自らファシストを標榜しており、同書の狙いの一つにファシズムの思想的復権があったとみなすこともできよう。

麻原氏の予言好み、ファシズム的傾向、マスコミ操作の技術などに『出口王仁三郎の霊界からの警告』が影響を与えたであろうことは想像に難くない。

なお、武田氏の思想がオウムに与えた影響については拙文「オウム真理教事件と現代日本の偽史運動」(『季刊邪馬台国』五八号所収)等を参照されたい。

ちなみに『出口王仁三郎の霊界からの警告』は、王仁三郎を単に一教団の教祖としてではなく日本近代史上の巨人として位置付ける内容であったため、オウム以外のカルト教団からもしばしば利用されている。

最近では、『出口王仁三郎の霊界からの警告』に基づきつつ、統一教会(原理運動)の文鮮明氏こそ王仁三郎の予言した真の救世主であると唱える書籍まで出された。

それによると、王仁三郎(およびその前世というスサノオ)と文鮮明氏の間には、宗教統一を唱える、淫行の教祖として非難をあびる、政府の弾圧によって投獄される、など二二項目の共通点があるという(高坂満津留『出口王仁三郎の救世主大予言』光言社、一九九六)。

出口王仁三郎礼讃の流行が超能力者待望の風潮を生み、それがオウムや統一教会、阿含宗のようなカルトの受け皿を提供したという側面も無視できないだろう。

現在、活躍している自称超能力者については、うさんくさい面もおのずと目につくし、トリックを暴くことも比較的容易である。ユリゲラーやサイババなどはその類だ。

また、神話上の人物や架空の人物、遠い過去の人物がいかに超能力を奮っても、それは現代の読者に実感をもって迫るものではない。

ところが王仁三郎が活躍したのは大正時代から昭和初期という比較的近い過去である。
本物の超能力者が実在したという印象を与える上で、王仁三郎の例はもっとも有効なケースなのだ。

今、大本教の刊行物や『ムー』などのオカルト雑誌も含めて、王仁三郎礼讃の雑誌・書籍は多数出版されている。ところが『学理的厳正批判大本教の解剖』を復刻しようなどという奇特な出版社は存在しない。

したがって読者には王仁三郎がいかに偉大な超能力者だったかという情報ばかりが与えられることになる。

この状況がカルトの布教にどれほど有利な状況を作り出しているかは、考えるだに恐ろしいものがある。

さて、先述した麻原氏の発言の中で、出口王仁三郎の入獄と戦後の日本占領との日数が同じだということを指摘するくだりがあった。

麻原氏はなぜ、この偶然を意味ありげに持ち出すのか。

実は、そこには大本教の教義における「型の思想」が取り入れられている。

すなわち、大本教団は日本の雛型、日本は世界の雛型であり、したがって大本に起きたことは拡大された形で日本に起こり、さらに世界に起こるという信仰である。

その観点からいけば、第二次世界大戦とは、まさに第二次大本事件の型が日本に移写された結果、起こったものだということになる。

一九八〇年、大本教団では第三代教主・出口直日の後継者の座をめぐって内紛が起き、その結果、教団は三つに分裂した。

すなわち大本本部、大本信徒連合会、そして「いづとみづの会」を母体とする愛善苑である。

この内、愛善苑は出口王仁三郎こそ救世主であるとして教主制そのものの廃止を唱え、もっとも急進的な立場をとっている。

そのため大本本部では幹部に現教主・出口聖子氏への個人的忠誠を求めるという形で結束を固め、愛善苑側ではその動向を非民主的だと非難するという形で両者の対立は進行しているのである。

この内紛は裁判沙汰にまでなっているが、宗教教団内の問題を現代の法廷で裁くのは難しく、ドロ沼化の様相を呈している。

これがいわゆる第三次大本事件であり、第一次・第二次大本事件が国家権力という外部からの弾圧だったのに対して、攻撃の火の手が教団内部から起こったところに特色がある。

出口直日は「いづとみづの会」による本部批判が始まった時、「不意打ちをうけたるよりの吾が祈り日本に型のうつらぬやうに」と詠んだ。

第二次大本事件が第二次世界大戦の惨禍として現れたように、第三次大本事件が日本にその型を現すことを恐れた祈りの歌である。

さて、直日の祈りも虚しく、第三次大本事件はすでにその型を現してしまったという説もある。

月海黄樹氏は、第三次大本事件の型はまず日本国内ではリクルート事件、世界的にはソ連崩壊と東西冷戦の終結という形で現れた、そして、第一次・第二次大本事件が対になっていたように、第三次大本事件と対になって起こった第四次大本事件こそオウム真理教事件である、と説く。

月海氏によるとオウムとは「大本教が産み落としたともいえる宗教」であり、「大本の霊系を受け継いで生まれた時代の申し子」なのだという。
(月海黄樹『龍宮神示』徳間書店、一九九五)

さて、愛善苑は王仁三郎の神格化を押し進め、王仁三郎原理主義ともいうべき方向に教義を展開させている。

王仁三郎が大正時代に口述した『霊界物語』は三五万年前、トルコはエレズレムに神都を置く世界帝国の崩壊に始まるSF調の物語だが、機関紙『神の国』など愛善苑側の刊行物にはこれがフィクションではなく、真実の人類の歴史であるという記述がしばしばみられる。

また、王仁三郎は終生、天動説と地球平坦説を信じ、地球が丸いなどという学者は阿呆だと唱えていたのだが、そのことは愛善苑側の刊行物でもとりあげられている。

王仁三郎を神格化するということは、このような彼の歴史観・宇宙観をも受け継ぐということである。

愛善苑が王仁三郎のオカルト・擬似科学的な世界観を奉じる限り、現代の常識的な世界観との衝突は必至となるだろう。

ただでさえ王仁三郎の思想にはハルマゲドン予言やフリーメーソン陰謀論などオウムの先駆となった要素があるのだ。

先述の『出口王仁三郎の霊界からの警告』の著者、武田崇元氏は一九八九年、愛善苑の事実上の代表者である十和田龍(出口和明)氏の令嬢と結婚し、大本閨閥入りを果たした。

武田氏は最近、中島渉氏のインタビューに応え「僕はね、出口王仁三郎の信者であって、(大本教団の)どこそこに所属しているわけではないんです」「わしは、いよいよ一朝事という場合には、ちょっと言上の儀ありというので、どこでも押し出していく覚悟はしておるわけです」と述べている。
(「武田崇元80年代オカルト一代記!」『宝島30』一九九六年一月号)

しかし、客観的に見れば、現在の武田氏の立場は決して中立というわけにはいかないはずである。
現代の社会常識と愛善苑の教義の衝突が表面化した時、自らファシストを標榜するアジテイターが果たしてどのような役割を演じてくれるのだろうか。

オウム真理教事件は宗教が暴走した時の恐ろしさを私たちに教えてくれた。

その悲劇を繰り返さないためにも私たちはオウムを準備した諸思想、諸宗教について、オウムとの相違点をも踏まえた上で検討していく必要があるだろう。



                       97年2月25日  原田 実


http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/text/text2.htm











出口王仁三郎、彼は新興宗教界における稀代のトリックスターであった。

しかし無論霊能力など彼にはない!
(というよりそういうものを前提にするとなんでもありになって説明の意味を成さない。)
彼にあったのは天性の人心収攬術と、彼をトリックスターに仕立てるために動いていた背後の勢力だけである。


たとえば彼のよくやっていたトリックの一つに信者の財布の中身当てというのがある。

まあ単純なトリックで、玄関で客の上着を預かる時、配下の人間が財布をすり、中身を確かめ、また元に戻しておく。

あとで手下から情報を得た王仁三郎が、財布の中身を当てると、客はその神通力にたちまち心服してしまう。

彼はおそらく原始的だが、人間心理という物に長けていたのであろう。それに加えて人間的魅力があったのは疑いない。

どうすれば相手をびっくりさせられるか、びっくりした人間がいかに理性を失うものか、そこにどういう言動を流しこめば相手が心服するか。

つまりどういう仕込みをしてどういう演技をすれば人が奇跡だと錯覚するか?

あるいは社会のどこに駒を配すれば最も効果的な影響が与えられるか、どういうマーケティングをすれば大衆の心を鷲掴みにできるか?

それが十分分かっていたからこその心理トリックの応用であり、新聞社の買収であり、自分の代わりとして使えるインテリや右翼の取り込みだったと言える。

実際彼は霊能力などではなく、必要な分野の知識を得るために相当な努力を実際に行い、その知識に基づいて行動をしている。

ではどこで彼はこんな知恵を身につけていたのか?

それなりに利口な人間だったとは言え、しょぜんただの京都の田舎の百姓上がりに過ぎなかったはずなのに。



















・出口 王仁三郎
(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年7月12日) - 1948年1月19日)
新宗教「大本」の教義を整備し、戦前において日本有数の宗教団体に発展させた実質上の教祖。大本では聖師と呼ばれている。
明治4年7月12日、現在の京都府亀岡市穴太(あなお)に、農業を営む上田家の長男上田 喜三郎(うえだ きさぶろう)として生まれた。
1893年(明治26年)(23歳)の頃から園部の牧場で働きながら牧畜の下積み生活をし、1896年(明治29年)(26歳)で独立し穴太精乳館を開業。搾乳・牛乳販売業を始める。

やがて、宗教や霊能に関心を持つようになり、1897(明治30)年、喜三郎は妙霊教会の熱心な信者となった。
1898年(明治31年)3月1日、松岡芙蓉(または「天狗」と名乗ったとも)と名乗る神使に伴われて、亀岡市内の霊山・高熊山に一週間の霊的修業をする。

(注:と自著の『霊界物語』では述べている。
しかし後に背景を説明するが、おそらくこれは嘘で、松岡某は彼を何らかの思惑を持って宗教者に仕立て上げた会津小鉄一家の博徒であったのだろうと推測される。

会津小鉄こと上坂仙吉はかつて会津藩 松平容保公の寵愛を得ていた。
江戸城には松平家が在所する芙蓉之間という場所があった。

つまり富士=芙蓉は江戸城松平公よりの使者を示唆する。)

1898年(明治31年)の10月に一度、大本の開祖・出口なおを京都府綾部に訪ねている。
翌年の7月に、なおの神示により招かれて再度綾部に行き教団を改善させ、後に戦前の巨大教団であった「大本」を形作る。

1900年(明治33年)なおの末娘・出口澄と養子結婚し 入り婿となり、名前を自ら出口 王仁三郎に改める。

1906年(明治39年)(36歳)、「皇典講究所」(現:「國學院大學」)教育部本科2年に入学。翌年卒業し、建勲神社の主典となり短期間奉職する。
その後、亀山城を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地にし、大正日日新聞を買収して言論活動に進出するなど教勢を伸ばすが、1921年(大正10年)、第一次大本事件で検挙。
同年より『霊界物語』の口述と出版を始める。 81巻83冊にも及ぶ長編の『霊界物語』では神界・幽界及び現界を通じた創造神である主神(すしん)の教えが、様々なたとえ話を用いて説かれており、教団内では人類救済の福音としての意味があると位置づけている。




・出口 直
(でぐち なお、1837年1月22日(天保7年12月16日) - 1918年(大正7年)11月6日)
大本の教祖。大本では開祖と呼ばれている。

天保7年(1836年)12月、農業を営む桐村五郎三郎の長女として現在の福知山市に出生。
出生直後から身寄りの近親者を次々と亡くし、また折からの天保の大飢饉などの影響により、桐村家は窮乏と貧困の極に達したため、幼少の頃から下女奉公に出て働くようになる。

嘉永6年(1853年)京都綾部町に嫁いでいた、出口ゆり(なおの叔母)の子となる縁ができ、養女となる。
安政2年(1855年)には夫となる四方豊助を婿養子として結婚する。(四方豊助は結婚後、出口政五郎の名を襲名)

明治25年(1892年)2月、帰神(神懸かり)状態で13日間の断食となる。帰神状態となって大声の金切り声で叫ぶなどの奇行を行なうようになると、周囲の人々からの理解はなくなり、座敷牢に押し込まれるなどの虐待にあうが、入牢中に落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「おふでさき」(自動書記)と呼ばれるものへとなって行く。

宗教を発足させた当初は、金光教の傘下として宗教活動を開始したが、かねてから独立した活動を希望していた。ようやく独立した活動が可能となったのは、明治31年(1898年)10月の上田喜三郎(のちに聖師・出口王仁三郎)の出現以降となる。(明治33年(1900年)1月、上田と娘の出口澄とを養子結婚させる)

                                (ウィキペディア)


























・侠客の史跡
http://www.geocities.jp/bqwxr271/


40 綾部市 上田喜三郎 出口王仁三郎 会津小鉄一家      明治博徒
http://www.geocities.jp/bqwxr271/meibo/meibokyoto1.htm







・香具師(やし、こうぐし、かうぐし)
祭礼や縁日における参道や境内や門前町、もしくは市が立つ所などで、露天で出店や、街頭で見世物などの芸を披露する商売人をいう。
古くは、香具師(こうぐし)とも読み、主に江戸時代では歯の民間治療をしていた辻医者(つじいしゃ)や、軽業・曲芸・曲独楽などの太神楽をして客寄せをし、薬や香具を作ったり、売買していた露天の商売人を指した。

明治以降においては、露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする人を指し、的屋(てきや)や三寸(さんずん)も呼ばれる
1690年(元禄3年)の発行の『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』では江戸、大阪、京都の城下町や港町において、丸薬や鬢付け油売りや傀儡廻しや物真似芸や蛇見せ芸などを披露する大道芸人の様子が記載されている。



・会津小鉄 (幕末)
会津小鉄(あいづのこてつ、本名:上坂 仙吉(こうさか せんきち)、1833年7月7日(天保4年5月20日) - 1885年(明治18年)3月19日)は、京都の侠客。

生地は後の大阪市南区本町2丁目、本籍は京都府愛宕郡吉田村第140号。

行友李風の『近世遊侠録』によると背中の文身は小町桜(小野小町が桜の下にいるとされる)。全身に数十にわたる刃傷があり1853年に右の小指を、1865年に左の指を3本(親指と人差し指を残して)斬られているが、己自身も少なくとも5人は手に掛けている。

1856年(嘉永9年)頃 - 江戸会津藩中間部屋の世話となる。後、二条新地大文字町に一家を構えた。
1863年(文久2年)12月 - 会津藩兵が入京。会津藩中間部屋頭の片腕として迎える。
1864年(元治元年) - 池田屋事件、禁門の変に協力するが討幕派に狙われる。
1867年(慶応3年) - 浪人を殺し入牢するが会津藩松平 容保が助命する。
1868年(慶応4年) - 鳥羽伏見の戦いには子分500人を動員し軍夫としたが大坂へ敗走。放置されている会津藩の戦死者の遺体を葬る。この後、遺品を携え官軍のいる会津若松に潜入して目的を達する。
1883年(明治16年) - 賭博により逮捕、裁判で禁錮10月の刑を宣告され入獄。翌年、出獄。
1884年(明治17年) - 出獄すると7000人が白川村の自宅に祝いに訪れたとされる。


初代会津小鉄
慶応4年(1868年)、上坂仙吉は、博徒の上坂音吉から盃をもらい、京都市白川に一家を構えた

二代目会津小鉄
明治19年(1886年)、上坂仙吉が病気で死亡した。上坂仙吉の実子・上坂卯之松が、会津小鉄二代目を継いだ。



                               (ウィキペディア)





「江戸後期になるといよいよ渡世人・博徒・無宿者・無頼・侠客などの、いわゆる任侠ヤクザが登場してくる。鉄火場を開いて博奕で稼ぐ。
これに手を焼いた幕府が八州廻りを設置する。関八州である。

武蔵・安房・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・常陸・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・相模をさす。この八地域の無頼・無宿は片っ端から引っ捕らえようというのである。

なぜ関八州にアウトローがふえたかというと、ここには日光街道・東海道・甲州街道・中山道・奥州街道が集中交差して紛れやすく、出入りも激しかったこと、天領が多くて身を隠れやすかったからである。
 
ここに八州警察と博徒・無宿とのはてしないどろ沼の対抗が続き、いわゆる上州長脇差(ながどす)のヤクザ風俗と悪代官の風俗が跋扈する。
無宿は住所不定者のことではなく、人別帳(戸籍)から除外された「帳外の者」のことをいう。
ここからは差別問題が派生する。
 
ここに幕末になって加わるのが、勤皇博徒と佐幕博徒の対立である。

高杉晋作なども勤皇博徒・日柳燕石(くさなぎえんせき)の盟友だった。
高杉は「燕石には子分が千人が下らない関西一の侠客だ」と書いた。

博徒が勤皇(日柳燕石・黒駒勝蔵)と佐幕(新門辰五郎・三河屋幸三郎・会津の小鉄・岐阜の弥太郎)に分かれるとともに、そこへ武装化した百姓一揆がなだれこむ。
これが赤城山の国定忠次の抗争などになっていく。
 
明治維新は、見方を変えると、薩長土肥のリーダーたちがこうした勤皇博徒と佐幕博徒とを巧みにコントロールし、そこに民権博徒をつくっていったプロセスでもあって、また秩父困民党に代表されるような農民運動をどのようにまきこみ、どのように弾圧するかという時代でもあった。

ここがわからないと明治維新はわからない。」


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0152.html









幕末期、博徒にも勤皇博徒と佐幕博徒の二種類があり、出口王仁三郎が属していた京都の会津小鉄一家はかつて佐幕博徒であった。
つまり幕府方なのである。

そして明治維新後においては、農民運動に対する間接的抑制装置としてこの博徒たちが政治的に利用されることとなる。

博徒たちは下層階級の人々の日常に深く介在し、時に宗教をも利用しその政治的な動向を誘導することさえあったのだろう。

大衆運動にいかなる思惑を持っていかなる勢力がかかわりを持ち、そこから何が生じたのかは、今となっては調べ難い。

ただ分かっていることは、その時代の仇花のごとき宗教として大本教が生まれ、そこに時代性をまとった出口王仁三郎という偉大なトリックスターが出現していた。
そこに多くの人々が魅力を感じ一種の集団ヒステリーのような動向を示しながら取り込まれて行った。

結果、そこにあったのは集団自殺を潜在的に志向するような、世界の終末を切望する宗教運動であった。(これは日本においては割と珍しい。)

僕個人は、あるいはこれは倒錯した佐幕運動の延長線にあった物語ではなかったのかと想うだけである。

けだし何かを強く熱望しながら大きな挫折を経験したものは、常に彼我一切の滅亡をこそ望むものである。
そして大本教の描く世界の終末観には、やはり出口王仁三郎や出口なおの人生そのものにまとわりつく逃れ難かった因習と個人的挫折の影が色濃く漂っている。

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